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北畠時定公の旧跡(きたばたけときさだこうのきゅうせき)

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1100383
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永承6年(1051)陸奥の国の安倍貞任が朝廷に反乱を起こして、貞任の抵抗が12年も続いたことがありました(前九年の役)。その後も貞任の残党・黒鳥兵衛が反乱を繰り返したので、朝廷は北畠中納言時定公を越後に派遣したという言い伝えがあります。
また、応徳元年~2年(1084~85)安倍貞任の重臣、黒鳥兵衛が下越後に乱入し、その鎮圧に弥彦の吉川宗方(桔梗城、現・西蒲原郡弥彦村)と、羽生田周防守(はにゅうだすおうのかみ 護摩堂城、現・南蒲原郡田上町)両城主が戦ったが、戦い利あらず敗走し、朝廷は北畠時定公を派遣した、とあります。
また一説に、応徳2年8月、時定公都を出発、出雲崎着、9月野積の観音山と弥彦の猿ヶ馬場で合戦、10月麓村合戦で、時定公受傷、10日戦死してしまいました。そこでこの地に墓を建て、守本尊聖観音(まもりほんぞんしょうかんのん)を近くに安置したとあります。それが現在の観音寺だといわれます。
戦死の地には時定公の精霊を葬って、石地蔵尊を安置しました。その場所は現在、観音寺から弥彦へ向かう旧北国街道の観音寺の小字六部塚(ろくぶづか)というところにあたります。そこにかつては老松が5・6本街道を跨いで生い茂っていたそうですが、今はその松もなく、地蔵尊も台座ばかりになってしまいました。

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