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黒鳥兵衛の乱とカンジキ(くろとりひょうえのらんとかんじき)

ページ番号
1100372
更新日
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彌彦神社の東方に「森林浴の森100選」に選ばれた城山森林公園があり、散策など憩いの場として親しまれています。
その昔は、春から秋にかけて桔梗(ききょう)の花が咲き乱れていたという史跡「桔梗城」址は、現在は、空堀(からぼり)・館址(たちあと)などの形跡が残るのみです。
古伝によれば、後冷泉天皇の御代、天喜年間(1055)に源氏の一族源頼光の部下であった吉川宗方(きちかわむねかた)という武士が、都からはるばる弥彦の里に移り、桔梗ヶ嶽の頂に初めて城を築き、桔梗城と名付けたといいます。
桔梗城からそう遠くない蒲原郡黒埼村(現・西蒲原郡黒埼町)の的場山に砦を築き、領民たちも多くの被害を受けていた凶賊がいました。次々と悪い仲間を集め、自らも不思議な妖術を使って、一帯を荒らし廻り、彌彦神社神領もしばしば侵されました。その名を黒鳥兵衛詮任(くろとりひょうえあきとう)といい、奥州・安倍貞任(あべさだとう)の一族で、前九年の役(1051‐1062)で、源頼義・義家父子に敗れ、越後に落ちのびてきたといわれます。
この訴えを聞いた源頼義はさっそく、黒鳥兵衛討伐を決意し、当時、勅勘を受けて佐渡島に流罪となっていた次男の加茂次郎義綱(かもじろうよしつな)を呼び戻し、討手の大将に命じました。
義綱は勇躍して佐渡より弥彦に移り、桔梗城主吉川宗方と作戦を練り、都から駆けつけた家臣の他、近隣の豪族に檄を飛ばして討伐軍を組織し、的場山の黒鳥軍との戦いの火ぶたが切られました。時に康平6年(1062)冬のことでした。
だが、戦いは、降り積もった雪や兵衛の妖術に手こずり、一進一退を続けました。特に1メートルを超す深い雪は最大の障害になりました。
さすがに寄せ手の加茂次郎義綱、吉川宗方の軍勢も攻めあぐんでいました。そんなとき、とある大雪の降った朝、広い雪原の上に、霊峰弥彦山の方角から飛んできた数羽の白鳥が、それぞれ嘴についばんできた枯れ枝をポトリ、ポトリと雪の上に落とすや、静かに舞い降りてその枯れ枝の上に止まって羽を休ませました。
じっとこれを見ていた義綱、宗方の二人は互いに顔を見合わせるや、はたと膝をたたきました。二人は相談して、さっそく部下たちを呼び寄せ、密かにあることを命じました。待つこと数刻、武士たちはそれぞれ手に手に妙な道具を持って集まってきました。
それぞれが手にしたのは、しなやかな竹や木の枝を手際よく折り曲げ、縄をくくりつけた異様なものでした。一同は、この品を次々と自分の足に取り付けて、そろりそろりと降り積もった雪の上を歩いてみると、実に具合よく雪に埋れずに雪原の上を行動できるではありませんか。
まさしく、これこそ彼の白鳥に託した彌彦大明神のご託宣なり、と喜び勇んだ寄せ手の一同は、密かに日暮れを待って、義綱・宗方自らを先頭に、砦近くまでしのび寄り、一挙に攻め込みました。中でも、討手の大将加茂次郎義綱は自ら大太刀を振りかざして黒鳥兵衛目指して進みより、互いに激しく太刀を合わせて戦い、ついに兵衛の首をはねました。
そのとたん、天地にわかに鳴動して、黒鳥兵衛の首は天高く飛び上がり、口から火炎を吐き出しつつ、義綱の頭上めがけて、形相すさまじく飛びかからんとしましたが、間一髪、見るよりも早く飛んできた白鳥が羽音も高く兵衛の首に襲いかかり、鋭い嘴でつつき、たちまち地上に叩き落しました。
ここにおいて、さしもの黒鳥兵衛の妖術も敗れ去り、討伐は大勝利を収めたのでした。
かくて、義綱は兵衛の首と胴体を別々の石びつに入れて、土中深く埋没し、その上に一社を建立して永久に兵衛の妖術を封じ込めました。
現在の黒埼町緒立八幡宮がこの神社であると伝わっています。
義綱たちが使ったこの道具は「カンジキ」で、越後地方での発祥といわれています。年々雪も少なくなり、除雪機の普及で弥彦周辺では「カンジキ」を履く人もほとんど見られなくなりましたが、山間地や豪雪地帯では、今も使用されています。

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