本文へ

村山の開基 川井彦左衛門のこと(むらやまのかいき かわいひこざえもんのこと)

ページ番号
1100381
更新日
  • Xでポスト
  • Facebookでシェア

村山の集落を開発された人は、川井彦左衛門といい、その三百年祭りが昭和41年3月24日の祥月命日に村をあげて盛大に行われました。
この川井彦左衛門とはどういう人物か、また、当時の村山地域の状況を述べてみたいと思います。
父は、矢部左馬亮(やべさまのすけ)と名乗り、江州(近江国、現・滋賀県)浅井・高島二郡を領し、7万石の城主でありましたが、大阪落城で浪々の身となり、当時渡部(現・分水町渡部)城主柴田佐渡守と従兄弟でしたので、ここに身を寄せ、やがて城主の嫡女お郷子(さと)を妻にもらい沢蔵人(さわくらんど)と改名し、家老職をつとめていました。
ところが、まもなく渡部城主は三条の城主定明と戦して、渡部扇山城は落城し、城主や家老は命からがら東北に逃げのびました。当時、妻のお郷子は懐妊の身、一時に父と夫を失い、身の置きどころもなく、かろうじて野積村(現・三島郡寺泊町野積)に逃れました。しかし、もとより城主の娘のこと、何の仕事もできず、土地の人々の情けにすがり、塩釜の火たきを手伝いながら生計を立てていました。そうしているうちにいよいよ月が満ちて、9月9日、玉のような男の子を出産しました。9月9日は菊の節句なので、その名を菊千代と命名しました。この菊千代こそ後の川井彦左衛門で、村山地域開発の先駆者だったのです。
母お郷子の一粒種の菊千代。しかも生まれながら誠に賢く立派に成長し、すでに16歳となりました。ある日、母にむかい、 「われはいかなる者の子ですか。」 と尋ねました。母はしばらく物も言わず、やがて涙を抑え、ようよう涙ながらに一部始終を物語りました。菊千代はこれを聞き、こぶしを握り涙まじりに、 「今、母上の物語で承知しました。さてさて氏といい、系図といい、誰にも劣らない。このまま朽ち果てることは誠に口惜しい。一度は城主の幕下に就職し、扶持をもらい、功績の一端をもたてなければ、先祖、近くは祖父・父への忠孝を…と思いを決心し、私に10年の暇をください。この地(野積)は師と仰ぐ方もいません。佐渡は芸能に達した方もおられると聞いています。私は佐渡に渡り、勉強して帰国の上、宿願を果たしとうございます。」 と顔色を変えて母親に頼みました。母もともに喜び、 「佐渡に行くなら、扇山城繁栄の折り勤務していた佐藤弥五郎という者がいる。この者を訪ねてこの物語をいたし、私の子であると話すれば必ず力になってくれるであろう。」 菊千代は喜び勇み、希望に燃えて佐渡に渡り、佐藤弥五郎の紹介等により10年間、諸芸に励みました。
一方、一人野積に残った母は土地の人の薦めにより、糸魚川の浪人で寺泊に来て寺子屋を開き、土地の子どもの教育に勉めていた川井喜右衛門との再婚の話が起きました。なにぶん10年音信もない菊千代のこと、双方で熟議の上、これが決定をみました。
帰村した菊千代は6尺4分、心身ともに立派な男に成長しました。そして母のこの間の事情を聞き、 「我生まれてより父の顔を知らず、今父子となるは過去、世の深いご縁、実父に増す…。」 と喜び、勇み、親子3人水魚のごとく交わり、この後、菊千代は氏を川井、名を彦左衛門と改めました。
彼は、かねてより彌彦大明神を深く信仰し、百日の参詣をし、満参の日、神前に自ら舞を奉納していました。これが長岡城主のご代参、大田佐右衛門(おおたすけえもん)殿の眼にとまり、長岡城主に仕えることになり、領内麓村、藤右衛門(とうえもん)宅へ借家しました。
そのころ、麓村と国上村の山境の争いが絶えませんでしたが、百姓一同ぜひとも山境の争いを解決してもらおうと、麓上奥右衛門屋敷(ふもとかみおくえもんやしき)へ転居してもらい、無事解決となりました。
その後、数々の功績などにより、長岡御役所の免状を得て村山の開発に着手したということです。

お問い合わせ

産業部/観光商工課/観光商工係

電話番号:0256-94-1025
メールアドレス:kankou@vill.yahiko.niigata.jp