観音寺温泉と侠客観音寺久左衛門物語(かんのんじおんせんときょうかくかんのんじきゅうざえもんものがたり)
弥彦から北国街道を上赤坂・矢楯と行くと続いて観音寺温泉があります。
遠く千年の昔、弥彦に住む狩人権九郎によって集落の前方熊ヶ谷の丘陵に霊泉が発見されました。更に200余年さがって堀川天皇の御代応徳元年(1084)に、観音寺集落にも湯脈の連なりが発見されるに至ってにわかに栄え、永く彌彦神社の神領として続いてきました。
また、伝説として語り伝えられるところでは、源頼義の次男加茂次郎義綱が弥彦庄司吉川宗方と共に黒鳥兵衛を討伐した際、戦に傷ついた武士たちがこの観音寺温泉で治療して傷をなおしたといいます。
この観音寺に住居して、往年北国第一の侠客と謳われた松宮雄二郎直秀こと、俗称観音寺久左衛門の事蹟も今日では遠い昔話になってしまいました。
松宮家がいつごろからこの地に住んでいたのかよくわかりませんが、伝説では、遠く江戸時代の初期、関東地方のさる高名の武士がこの観音寺に落人として逃れ住み、たまたま時の上杉管領より十万石の格式で家臣になるよう要請されましたが、これを断り、それではせめてもと管領家より槍一筋と陣笠1ヶ・陣羽織1着・人々の祝い事ある時の酒宴用の盃1ヶを拝領したと伝わります。
当主は代々久左衛門と名乗り、集落の民はもとより近郷近在の信望厚く、時代時代の当主久左衛門はそれぞれに侠気があり、その侠名は全国に広がり、「江戸で長兵衛、北国で久左衛門」と並び称され逸話もまた多かったといわれます。
江戸の大相撲、雷電為右衛門が越後地方巡業の年、あいにくと水害のため不作で嘆き悲しむ農民相手に相撲興行も打つことができずに困っていた時、当時の当主久左衛門はポンと胸をたたいて一行数十人の力士を世話したそうです。かつまた、半年も興業に力を貸して広く近隣の農民を招待して喜ばせ、雷電為右衛門一行を無事に江戸へ送り帰したといわれます。
幕末における松宮家最後の当主松宮雄二郎直秀は、当時有名だった上州の侠客大前田英五郎(おおまえだえいごろう)、国定忠治(くにさだちゅうじ)とも親交があり、彼らも時には久左衛門宅へワラジを脱いだと言われます。また、万延元年(1860)桜田門の変で大老井伊直弼を誅した水戸浪士2名が越後へ逃れ、久左衛門の庇護を受けたと伝わっています。
明治の御維新に際し、久左衛門は長岡藩の英雄河合継之介(かわいつぎのすけ)と密約を結び、会津征討の官軍を島崎村(現・三島郡和島村島崎)に迎え撃った時は、猩々緋(しょうじょうひ)の陣羽織を着用し、頭に陣笠をいただき、数多の子分を引き連れて戦い、その勇猛ぶりは官軍方を驚かせたといわれます。
長岡藩の恭順によって戦闘も不利となり、久左衛門はついに米沢の上杉藩へ落ち延び、明治6年(1873)6月10日、68歳で病死したといいます。
官軍方は、観音寺集落に進軍するや、松宮の一族を始め主だった子分の家をことごとく焼き打ちにかけ、罰したといわれ、この火災により松宮家の主な文献、建物その他一切が失われてしまいました。
今、松宮家の広大な邸跡は集落の中央を走る村道(旧県道)の山手に面した北越農事の園芸地として残っています。
最後に、代々の当主観音寺久左衛門の逸話として語り伝えられている数々を記します。
1.大事が起きた時は、久左衛門の廻状一本でたちどころに千人を超す屈強な子分が近隣近在から駆けつけた。
2.久左衛門は観音寺集落に生活している時は絶対に絹物を身につけなかった。
3.仲裁事や掛け合い事に出かける時は、絶対に刀は持参せず、子分を一人も連れて行かなかった。
4.毎年年の暮れになると、村中の生活に困っている家々をこっそりと廻り、人知れず障子の破れから1分、2分の金を恵んで歩いた
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