親鸞聖人刻み分け伝説(しんらんしょうにんきざみわけでんせつ)
林部市左衛門は、滞在中の聖人に朝夕給仕する間に化導を受けて熱心な信徒となり、お別れした後も東国や都へ折りにふれて馳せ参じて教えを受けました。寛元3年(1245)聖人73歳の折に、何回目かの上京した時、布教のため再び弥彦へ下向されるようお願いしましたが、すでに高齢でかなわぬから形見にといって、自ら自像を刻んで与えられました。市左衛門は感喜して持ち帰り、同志にも披露して、一同久々で聖人にお目にかかった気持ちになって信心を固くしました。
その後、神社の周辺で仏の教えがはばかれるような世になったとき、紙に包んで天井につるしたままで年を経ました。
明治初年に縁あって岩室村石瀬の浄泉寺(じょうせんじ)に迎えられ、現在は同寺でていねいに朝夕のお給仕をされています。
また、弥彦界隈には、社参に訪れた親鸞が、祈願成就のため自己の木像を彫り、半体まで制作しかけたところに、伊夜比古の神の化身の老人が現れ、親鸞の話を聞いて、祈願が叶うよう、もう半体を制作されたという伝説があります。
また、社参祈願の成就に感謝して聖人自ら自身の像を彫られたという伝説も伝わっています。
(注釈)三条市安楽寺所蔵の親鸞像
もと彌彦神社神主高橋家の小堂に安置されていたもので、文政9年(1826)に浄土真宗仏光寺派本山への寄付という形式で、「聖人清水」脇に移され、その後文政11年(1828)から天保11年(1840)10月まで矢作(やはぎ)の法円寺に保管、同月安楽寺に移されたものです。容姿・袈裟・手の位置とも通常の親鸞像と大きく異なり、その独特の雰囲気は作成の事情を物語っています。
(注釈)弥彦村宝光院所蔵の親鸞像
もとは神宮寺阿弥陀堂内にあったものが、廃仏時に本地仏とともに焼却命令の対象となっていましたが、焼却命令がいったん中止され、出雲崎役所へ一時預けされた後、本地仏とともに移動し、再建された宝光院阿弥陀堂に戻ったものであるといわれます。両手は数珠を持った形状をしていますが、数珠はすでにありません。
(注釈)岩室村菅井キヨ宅所蔵親鸞像
もと真言院(護摩堂)に安置されていたものであり、明治元年(1868)菅井家にうつったものです。同家には、
-御一新のことのある晩、甘露(菅井家の主人)は夢をみた。枕元に親鸞聖人が立って、「私は弥彦の親鸞だが、御一新のため燃やされようとしている、助けてほしい。」と訴える夢だった。驚いて跳び起き、弥彦へ駆けつけたところ、いままさに聖人の御木像が火に投ぜられようとしているところだった。甘露が焼却だけはやめてほしいと必死に嘆願した結果、夢告(ゆめつげ)に免じて貰い受けることができた。-
という口伝があります。
(注釈)吉田町溝古新清伝寺(みぞこしんせいでんじ)所蔵親鸞像
廃寺の時点まで弥彦にあったものを救い出したという伝説があります。
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