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玄翁和尚と「げんのう」(げんのうおしょうと「げんのう」)

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1100378
更新日
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大字矢作に慈眼寺(じげんじ)という寺があり、ここの本堂に同寺開創者といわれる玄翁和尚自作の「枳尼天像(だきにてんぞう)」が安置されています。
この玄翁和尚は姓を源、名は心照といい、矢作の出身です。母は麓の観音寺本尊正観世音に祈願をこめて嘉暦元年(1326)に出生したといわれます。
その出生の因縁で、5歳の時から国上寺へ上がって修行を積み、真言密教の哲理を学び、19の歳相模国(今の神奈川県)総持寺(そうじじ)に移りました。当時名僧智識といわれた峨山紹碩(がざんじょうせき)の仏弟子となって熱心に修行し、ついに禅師のあとを嗣いで総持寺住職となり、数多くの仏弟子の中よりたくさんの名僧を育成しました。
後に、伯耆国(鳥取県)の名刹退休寺(たいきゅうじ)の開基となり、下総国(千葉県)の名刹安穏寺(あんのんじ)、会津(福島県)の名刹慶徳寺(けいとくじ)、また、下野国(栃木県)の名刹泉渓寺(せんけいじ)などを創設しました。
修行中に父祖菩提のため矢作村に帰り、文和2年(1353)慈眼寺を建てましたが、応永3年(1396)71歳で大往生したと伝えられています。
この玄翁和尚の那須野ヶ原殺生石退治の伝説は、謡、能の「殺生石」でよく知られています。
殺生石の伝説をお話します。
昔、宮中で時の帝を弑逆しようとした玉藻前(たまものまえ)という女官(実は中国から飛来した金毛九尾の狐)が、悪事が発覚して都から逃れ、那須野ヶ原で殺生石に化け、付近を通る旅人や動物、石の上を飛ぶ鳥などを妖気で殺し、人々から恐れられていました。当時、泉渓寺住職であった玄翁和尚がその話を聞いて、早速殺生石のそばへ近づき、手にした鉄槌で粉々に打ち砕いて供養し、その狐の害を取り除いたといいます。
今日の、大工職人が使う金槌・鉄槌のことを俗に「げんのう(玄翁)」というのは、この玄翁和尚が殺生石退治に鉄槌で打ち砕いたところから、名前が由来したと伝えられています。

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