県指定文化財
木造多聞天立像(もくぞうたもんてんりつぞう)

- 県指定文化財 彫刻(昭和41年12月18日指定)
- 高さ6尺1寸9分(187cm余)の寄木造り。いかめしく腕を張り、脚を踏んだ木像で、胸内面に梵字3字、背面に嘉暦3年(1328年)8月1日、龍池寺(りゅうちじ)住人律師頼円の墨書の示す通り、鎌倉期彫刻の特徴をよく表わしている。
墨書にある龍池寺は、鎌倉幕府から弥彦に来た地頭僧禅朝が薬師堂を弥彦山麓北谷薬師平に移し、12の房舎と山門のある堂々たる堂舎を持ち、紫雲山龍池寺と称した修行者の修練道場であった。
一時は大いに栄えたが、延徳3年(1491年)改易となり、龍池寺は取り壊された。その後この木像その他は宝光院に納まったと伝えられている。
木像は現在阿弥陀堂内右側に安置してある。
砧青磁袴腰香炉(きぬたせいじはかまこしこうろ)

- 県指定文化財 工芸品(昭和29年2月10日指定)
- 高さ5寸(15cm余)口径6寸5分(約20cm)の大香炉で、我国に現存する青磁香炉中でも最大の部に属し、中国南宋時代の有名な竜泉窯焼成である。
寛元4年(1246年)鎌倉の建長寺開山大覚禅師蘭渓道隆(だいかくぜんじらんけいどうりゅう)が宋から渡来した際持参して、時の鎌倉将軍に献上し、後年徳川家の所有となった。家康はこれを実子高田城主越後少将松平忠輝に伝え、慶長16年(1612年)、忠輝がこれを彌彦神社に奉納したものである。
大太刀 拵共(おおたち こしらえとも)

- 県指定文化財 工芸品(昭和30年2月9日指定)
- 刀長7尺4寸(224cm)中心(なかご)3尺1寸(93cm)全長ほぼ志田大太刀にも等しい大物で、越後国高田の刀工三家正吉が天保14年(1843年)に鍛えて奉納したものである。地は板目鍛え、刀文は中直刀(すぐは)、その整正たる仕上げにはいささかなゆるみもない。
鞘巻(さやまき)太刀と称する拵(こしら)えの全部が、越後の工匠の製作であることも貴重である。鍔(つば)は新発田の渡辺寛敬書「神武不賊」を金象嵌(ぞうがん)してあり、虎の目貫は工匠斎藤芳彦一代の力作であるといわれる。
(銘)
奉納伊夜比古大明神之広前宝祚無窮親一王及文武臣僚天下万姓長久安寧
天保十四年歳次癸卯二月日頸城郡高一田住人三家正吉作之
鏡鞍 附 壷鐙一双(かがみくらつけたりつぼあぶみ)

- 県指定文化財 工芸品(昭和39年12月21日指定)
- 源義家が天喜5年(1057)奥州征伐の途、本社に参拝して神助を祈り献納したと伝えられている。
鞍は全面を銀と鋼の鏡地で覆うので鏡鞍と称され、他には京都にある重要文化財一背に次ぐもので、平安朝の様式をよく残している。壷鐙は鉄板を銀銅板金で包んだもので、さらに古式を存する名品で、この種の半舌壷鐙としては極めて遺品が少ない。
上杉輝虎祈願文(うえすぎてるとらきがんぶん)

- 県指定文化財 書跡・典籍(昭和44年12月25日指定)
- わが国、戦国武将の典型と称される上杉輝虎(謙信)は、特に神仏の信仰厚く、諸社寺を崇敬して、願文も残っている。本書は永禄7年(1564年)に弥彦神社に奉った願文で、関東・信濃・越中など出兵の理由を明らかにし、繰り返し、正義の戦いであって、断じて私利非道は行わない旨を誓い、神助を祈っている。謙信関係文書中でも最も重要なものとして知られている。
弥彦の蛸ケヤキ(やひこのたこけやき)

- 県指定文化財 天然記念物(昭和27年12月10日指定)
- 弥彦神社前の大通りを西へ少し入った、弥彦神社末社住吉神社境内の小祠をおおうように立つケヤキの老木である。樹齢およそ800年以上、目通り周9メートル、樹高約30メートルで、蛸欅と呼ばれているように、巨幹から地上近くすぐに大枝が八方に広がり、壮観を呈している。
この住吉神社の現在の祠堂は、明治28年7月廃校の止むなきに至った明訓校の中庭に、同校の創立者大橋一蔵先生が奉斎して朝夕生徒に礼拝させた校内神社の祠堂で、同校廃校の際に氏子有志が譲り受けて現在の住吉神社の祠堂としたと伝わる。
弥彦の婆々スギ(やひこのばばすぎ)

- 県指定文化財 天然記念物(昭和27年12月10日指定)
- 彌彦神社の北隣に位置する宝光院の裏山にある樹齢約千年の杉の巨木で、一般には婆々杉とよばれ、弥三郎婆さの伝説を伝えている。目通り周10メートル、樹高約40メートルで樹勢きわめて盛んである。
妙多羅天女と婆々杉伝説
今から900年以上前の承暦3年(1079年弥彦神社造営の際、上梗式奉仕の日取りの前後について、鍛匠(鍛冶屋)黒津弥三郎と工匠(大工棟梁)の争いとなった。これに負けた弥三郎の母(一説に祖母)は無念やるかたなく、恨みの念が昂じて鬼となって、形相ものすごく雲に乗って飛び去った。それより後は、佐渡の金北山、蒲原の古津、加賀の白山、越中の立山、信州の浅間山と、諸国を自由に飛行して悪行の限りをつくし、「弥彦の鬼婆」と世人に恐れられた。
それから80年の歳月を経た保元元年(1156年)、当時弥彦で高僧の評判高かった典海大僧正が弥彦の大杉の根元に横たわる一人の老婆を見つけ、悪行を改め、本来の善心に立ち返るよう説得し、さらに秘密の印璽を授け「妙多羅天女」の称号を与えたところ改心した。その後は神仏、善人、子どもの守護に尽くしたので、村人はこの大杉を「婆々杉」と呼ぶようになった。
弥彦参道スギ並木(やひこさんどうすぎなみき)


- 県指定文化財 天然記念物(昭和32年2月25日指定)
- 旧北国街道(北陸道)は古い時代から弥彦を縦貫し、村は宿駅としての役目を果たしてきた。この道が村に接する南北の沿道両側には、延長約200間(約350m)にわたり、神社では参道として杉を植えて厳重な管理を続けたため、数百年を経た今日では見事な杉並木となり、貴重な存在となっている。
明治以後は行政の手で守られてきたが、老木であること、保護の手がゆるんだため枯死や衰えが目立ってきた。そこで昭和49年に弥彦参道杉並木保存会を結成し、これによって補植、施肥、枝下ろしなど、保護保全に努力をしている。
よろづ代に 仕へまつらむ 伊夜彦の 杉の下道 い往きかへらひ 良寛
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