国重要文化財
十柱神社社殿(とはしらじんじゃしゃでん)
国重要文化財 建造物(大正6年8月13日指定)
彌彦神社境内末社である十柱神社現社殿は、元禄7年(1694)、長岡藩主牧野氏の奉納で、桁行(けたゆき)3間、梁間(はりま)3間。屋根は一重、茅葺(かやぶき)で入母屋(いりもや)造の妻入(つまいり)、板葺向拝(いたぶきこうはい)1間付き。その形式は簡明であるが、蛙股(かえるまた)・虹梁(こうりょう)・拳鼻(けんび)などの絵様彫刻に桃山末期の様式を伝えている。
元禄7年(1694年)長岡三代藩主牧野駿河守忠辰の心願により、新たに社を創建し、翌年牧野家関係四霊神と、境内にあった大己貴命(おおなむちみこと)を祀る末社を合融し「五所宮」と称したことに始まる。明治になって信濃川の大河津分水工事に伴い、新河の傍らに弥彦大神と土・水・山・野・海・川等十柱の神を工事守護神として祀られたが、明治6年(1873)県令楠本正隆の命でこれらを彌彦神社に合祀されることとなった。彌彦神社では弥彦大神を本社に奉遷、ほかの九柱神をこの五所宮に合祀した。明治8年(1875)、牧野家四霊神を廃祀、祭神大己貴命と九柱合わせて十柱を祀り、社名が「十柱神社」と改められた。
大太刀 附 革鐔(おおたち つけたり かわつば)
国重要文化財 工芸品(昭和4年4月6日)
刃渡り7尺2寸8分5厘(220.4cm)中心(なかご)3尺3寸5分(101.5cm)、身長大きく身幅広く反(そ)りは高い。地(ぢ)は板目鍛(いためきたえ)、刃文(はもん)は湾(のた)れ心(ごころ)の乱刃(みだれば)で、表裏に棒樋(ぼうひ)をかく。中心には長い銘(めい)が切ってあり、応永22年(1415年)の製作を示している。
この刀は越後国古志郡夏戸(現、三島郡寺泊町地内)城主志田三郎定重が、備前国(現、岡山県)長船(おさふね)の刀工家盛(いえもり)に鍛えさせて奉納した。重要文化財の湾刀(まがりがたな)としては、わが国最大の刀で、附属の練革(ねりかわ)13枚重ねの丸鍔(まるつば)や鉄はばきなどとともに貴重な名品である。
(銘) (表)南無正八幡大菩薩 右惠門焏家盛 (裏)南無淹摩利支天源定重 應永廿二年十二月日
弥彦神社燈篭おしと舞楽(とうろうおしとぶがく)
国重要文化財 無形民俗文化財(昭和53年5月22日指定)
彌彦神社に古くから伝わる燈篭神事で、以前は旧暦の6月14日を中心に行われていたが、昭和36年から現行の7月25日を中心に行われるようになった。この晩は県内各地の大燈篭講中から献燈された大燈篭と地元氏子中より献燈の田楽燈篭多数が2基の御神輿を中心にその前後に連なり渡御巡行となる。午後9時、行列は迎え燈篭に先導され、一の鳥居で勢ぞろいして行進、摂末社の前で神歌を披講する。この間花燈篭の連中は歓声をあげてもみ合い、それを囲んで踊り回る。町を一巡した燈篭は夜半帰還し、拝殿前の特設舞殿を取り囲む。その中で神歌楽、天犬舞が奉奏され深夜に終了する。
舞楽は「大々神楽(だいだいかぐら)」「小神楽(しょうかぐら)」「神歌楽(かがらく)、天犬舞(あまいぬまい)」の3種よりなる。
大々神楽は地久楽(ちきゅうらく)、戟舞(えんぶ)、弓の舞(ゆみのまい)、陵王(りょうおう)、河(りんが)、安摩(あま)、神面(かんめん)、二の舞(にのまい)、児納蘇利(ちごなそり)、珠(かんじゅ)、抜頭(ばとう)、大納蘇利(おおなそり)、泰平楽(たいへいらく)の13曲からなり、現在は4月18日の妃神例祭に舞殿で奏される。
小神楽は正月の夜宴神事と2月の神幸神事に拝殿で奉奏されるほか崇敬者らの祈願の際にも奉奏される巫女舞である。神歌楽、天犬舞は一社秘伝の舞で、7月25日の当夜神前の仮設舞殿のみで舞われる。
鉄仏餉鉢(てつぶっこうばち)
国重要文化財 工芸品(昭和34年12月18日指定)
口径59cm、高34.3cm、縁厚約1.2cm、高台高7.1cmの大鉢で、口縁部の端反り少なく、胴部に陽鋳の玉線がめぐり、高台は大きく反り、数条の節がある。ひきしまった形・輪郭・のびやかな全体の姿には、時代の気品を示すものがある。
上下玉線の間の陽刻銘文により、鎌倉末期の嘉暦元年(1326年)に、越後国奥山庄(現、北蒲原郡中条町付近)の住人相次郎孝基が奉納したものであることがわかる。
(銘) 弥彦御鉢 嘉暦元年丙寅 九月吉日 奥山庄中条住人 相次郎孝基敬白
県指定文化財
木造多聞天立像(もくぞうたもんてんりつぞう)
県指定文化財 彫刻(昭和41年12月18日指定)
高さ6尺1寸9分(187cm余)の寄木造り。いかめしく腕を張り、脚を踏んだ木像で、胸内面に梵字3字、背面に嘉暦3年(1328年)8月1日、龍池寺(りゅうちじ)住人律師頼円の墨書の示す通り、鎌倉期彫刻の特徴をよく表わしている。
墨書にある龍池寺は、鎌倉幕府から弥彦に来た地頭僧禅朝が薬師堂を弥彦山麓北谷薬師平に移し、12の房舎と山門のある堂々たる堂舎を持ち、紫雲山龍池寺と称した修行者の修練道場であった。
一時は大いに栄えたが、延徳3年(1491年)改易となり、龍池寺は取り壊された。その後この木像その他は宝光院に納まったと伝えられている。
木像は現在阿弥陀堂内右側に安置してある。
砧青磁袴腰香炉(きぬたせいじはかまこしこうろ)
県指定文化財 工芸品(昭和29年2月10日指定)
高さ5寸(15cm余)口径6寸5分(約20cm)の大香炉で、我国に現存する青磁香炉中でも最大の部に属し、中国南宋時代の有名な竜泉窯焼成である。
寛元4年(1246年)鎌倉の建長寺開山大覚禅師蘭渓道隆(だいかくぜんじらんけいどうりゅう)が宋から渡来した際持参して、時の鎌倉将軍に献上し、後年徳川家の所有となった。家康はこれを実子高田城主越後少将松平忠輝に伝え、慶長16年(1612年)、忠輝がこれを彌彦神社に奉納したものである。
大太刀 拵共(おおたち こしらえとも)
県指定文化財 工芸品(昭和30年2月9日指定)
刀長7尺4寸(224cm)中心(なかご)3尺1寸(93cm)全長ほぼ志田大太刀にも等しい大物で、越後国高田の刀工三家正吉が天保14年(1843年)に鍛えて奉納したものである。地は板目鍛え、刀文は中直刀(すぐは)、その整正たる仕上げにはいささかなゆるみもない。
鞘巻(さやまき)太刀と称する拵(こしら)えの全部が、越後の工匠の製作であることも貴重である。鍔(つば)は新発田の渡辺寛敬書「神武不賊」を金象嵌(ぞうがん)してあり、虎の目貫は工匠斎藤芳彦一代の力作であるといわれる。
(銘)奉納伊夜比古大明神之広前宝祚無窮親一王及文武臣僚天下万姓長久安寧
天保十四年歳次癸卯二月日頸城郡高一田住人三家正吉作之
鏡鞍 附 壷鐙一双(かがみくらつけたりつぼあぶみ)
県指定文化財 工芸品(昭和39年12月21日指定)
源義家が天喜5年(1057)奥州征伐の途、本社に参拝して神助を祈り献納したと伝えられている。
鞍は全面を銀と鋼の鏡地で覆うので鏡鞍と称され、他には京都にある重要文化財一背に次ぐもので、平安朝の様式をよく残している。壷鐙は鉄板を銀銅板金で包んだもので、さらに古式を存する名品で、この種の半舌壷鐙としては極めて遺品が少ない。
上杉輝虎祈願文(うえすぎてるとらきがんぶん)
県指定文化財 書跡・典籍(昭和44年12月25日指定)
わが国、戦国武将の典型と称される上杉輝虎(謙信)は、特に神仏の信仰厚く、諸社寺を崇敬して、願文も残っている。本書は永禄7年(1564年)に弥彦神社に奉った願文で、関東・信濃・越中など出兵の理由を明らかにし、繰り返し、正義の戦いであって、断じて私利非道は行わない旨を誓い、神助を祈っている。謙信関係文書中でも最も重要なものとして知られている。
弥彦の蛸ケヤキ(やひこのたこけやき)
県指定文化財 天然記念物(昭和27年12月10日指定)
弥彦神社前の大通りを西へ少し入った、弥彦神社末社住吉神社境内の小祠をおおうように立つケヤキの老木である。樹齢およそ800年以上、目通り周9メートル、樹高約30メートルで、蛸欅と呼ばれているように、巨幹から地上近くすぐに大枝が八方に広がり、壮観を呈している。
この住吉神社の現在の祠堂は、明治28年7月廃校の止むなきに至った明訓校の中庭に、同校の創立者大橋一蔵先生が奉斎して朝夕生徒に礼拝させた校内神社の祠堂で、同校廃校の際に氏子有志が譲り受けて現在の住吉神社の祠堂としたと伝わる。
弥彦の婆々スギ(やひこのばばすぎ)
県指定文化財 天然記念物(昭和27年12月10日指定)
彌彦神社の北隣に位置する宝光院の裏山にある樹齢約千年の杉の巨木で、一般には婆々杉とよばれ、弥三郎婆さの伝説を伝えている。目通り周10メートル、樹高約40メートルで樹勢きわめて盛んである。
【妙多羅天女と婆々杉伝説】
今から900年以上前の承暦3年(1079年弥彦神社造営の際、上梗式奉仕の日取りの前後について、鍛匠(鍛冶屋)黒津弥三郎と工匠(大工棟梁)の争いとなった。これに負けた弥三郎の母(一説に祖母)は無念やるかたなく、恨みの念が昂じて鬼となって、形相ものすごく雲に乗って飛び去った。それより後は、佐渡の金北山、蒲原の古津、加賀の白山、越中の立山、信州の浅間山と、諸国を自由に飛行して悪行の限りをつくし、「弥彦の鬼婆」と世人に恐れられた。
それから80年の歳月を経た保元元年(1156年)、当時弥彦で高僧の評判高かった典海大僧正が弥彦の大杉の根元に横たわる一人の老婆を見つけ、悪行を改め、本来の善心に立ち返るよう説得し、さらに秘密の印璽を授け「妙多羅天女」の称号を与えたところ改心した。その後は神仏、善人、子どもの守護に尽くしたので、村人はこの大杉を「婆々杉」と呼ぶようになった。
弥彦参道スギ並木(やひこさんどうすぎなみき)
県指定文化財 天然記念物(昭和32年2月25日指定)
旧北国街道(北陸道)は古い時代から弥彦を縦貫し、村は宿駅としての役目を果たしてきた。この道が村に接する南北の沿道両側には、延長約200間(約350m)にわたり、神社では参道として杉を植えて厳重な管理を続けたため、数百年を経た今日では見事な杉並木となり、貴重な存在となっている。
明治以後は行政の手で守られてきたが、老木であること、保護の手がゆるんだため枯死や衰えが目立ってきた。そこで昭和49年に弥彦参道杉並木保存会を結成し、これによって補植、施肥、枝下ろしなど、保護保全に努力をしている。
よろづ代に 仕へまつらむ 伊夜彦の 杉の下道 い往きかへらひ 良寛
村指定文化財
旧武石家住宅(きゅうたけいしけじゅうたく)
村指定文化財 建造物(平成5年2月5日指定)
昭和49年~50年に新潟県教育委員会によって行われた新潟県民家緊急調査で「チョウナはつりの柱や梁がよく残り、民家としての古い要素が数多く残っている」として高い評価を得た建物である。平成4年から解体復原に向けて詳細な調査がすすめられ、その過程で村文化財に指定され、平成9年5月、建築当初、享保の頃の姿に復原された。
主屋は東を正面とし、平入、桁行7間、梁間4間、寄棟造(よせむねづくり)茅葺、東側正面に茅葺おろしの形で、出が半間の庇(ひさし)がつく。間取りは、田の字が変形した喰違い四間取りで、ザシキ、ネマ、チャノマ、ニワ(台所)となっている。ザシキとネマ(Ⅰ)を除いて床は土間になっている。この床の仕様は、モミ殻をしき、ワラをのせ、ムシロをかぶせる土座(どざ)とよばれる方式である。
なお、敷地内には国登録有形文化財の「味噌蔵」と「薪小屋」がある。
桔梗城跡(ききょうじょうあと)
村指定文化財 史跡(昭和50年11月7日指定)
弥彦村大字弥彦の東方の丘陵群の一端、俗に城山(標高86.2m)と呼ばれている峰は、昔、桔梗が咲き乱れ、一名桔梗ケ岳ともよばれていたという。城跡にはかつては樹齢数百年を数える巨松8本が立ち並んでいたが、現在ではわずかに数本残すのみである。
付近には空堀、館跡や曲輪跡なども残っており往時をしのばせる。
平安時代天喜年間(1050年代)源頼光の一族であった弥彦庄司吉川宗方がこの城を築き、康平6年(1063年)黒鳥兵衛の乱を防いだと伝えられているが、弥彦神社自衛のために早くからここに簡単な塁を築いたのが始まりであろう。
戦国期に至り、城主黒田秀忠は長尾景虎に抗して自殺し、その後は黒滝城主山岸秀能の支配となった。
慶長3年(1598年)上杉景勝の会津移封により廃城となった。
現在は城山森林公園として保存されている。
法圓寺 鐘楼・山門(ほうえんじ しょうろう・さんもん)
村指定文化財 建造物(平成13年11月30日指定)
山門は四脚門(よつあしもん)の形式であり屋根は桟(さん)瓦葺。中央の円柱径は1尺3寸、控の方柱は1尺角の太い骨格で構成されている。斗組(ますぐみ)は出組形式の詰組を基本にしているが、その中間に、みの束を用いた間斗束(けんどづか)を置いている。妻飾(つまかざり)は二重紅梁(こうりょう)、太瓶束(たいへいづか)方式で千鳥破風(ちどりはふう)を構える軒は二軒平行繁垂木(にけんへいこうしげたるき)である。
各所に渦巻型彫刻や獅子頭(ししがわら)、木鼻(きばな)を用いてあたかも彫刻が多用されているように見受けられるが、四脚門には不似合いな程の太い骨格の構造材及び軒を支える斗組や両端の妻飾の、豪快で複雑な構成にある。材質も桁より下は全てケヤキ材を用い、当時の寺格や大工技術の高さを伺わせる建物である。
鐘楼は、四脚型、入母屋造(いりもやづくり)桟瓦葺(さんかわらぶき)。1辺が1尺2寸5分の四方転びの柱を二段の貫と頭貫(かしらぬき)で固めている。頭貫下端には、龍と雲の彫刻欄間(らんま)がはめ込まれている。斗組は山門と同じ手法を用い、軒は二軒扇垂木(にけんおうぎたるき)形式である。
内部にも外部と同じ形式の斗組を出し、近世によく見られる差肘木(さしひじき)形式を取ってはいない。天井はなく、小屋組表しである。妻飾は紅梁、太瓶束方式を採る。この建物も山門と同じく桁より下に全てケヤキ材を用い、その意匠は山門と同じく豪快である。
昭和4年(1929年)に記された寺の記録によると、山門改築は安政元年(1854年)、鐘楼改築は安政3年(1856年)とされている。
また、旧間瀬村西蓮寺住職の記録(明治三十五年「間瀬村史」初稿)には、間瀬大工篠原嘉左衛門が同寺の普請を行ったと記されている。
黒滝城跡(くろたきじょうあと)
村指定文化財 史跡(昭和50年11月7日指定)
弥彦村の南端、大字麓地内の要害(標高246.4m)に残る古城は、戦国時代に「黒滝要害」とよばれ、北陸道の軍略上の要として重要な役割を果たした守護上杉氏及び後上杉氏直属の要塞であった。「永正の乱」「天文の乱」「御館の乱」「遺民一揆」など越後の覇権をめぐって繰り返される動乱の度ごとに黒滝要害の攻防が行われたことがこれを裏付けている。
「御館の乱」を克服した上杉景勝は、春日山城を主城とする支城網を越後全域に布置し強固な城番制度を確立するが、黒滝城は依然、中・下越の交通上の結節点をふまえた屈強の規模の大きさ、施工の徹底ぶりなどがそれを物語っている。
慶長2年(1597)、上杉氏の会津移封に伴ない廃城となった。
黒滝城の全体規模は大きく、西蒲原郡内では岩室村の天神山城と双璧をなし、蒲原地方全体の中においても屈指の存在といえる。中世城郭共通の姿をもっており、平時の政庁兼居住地にあたる館と家臣団の居住区(根小屋)と、有事の際篭城するための山城(要害とよぶ)に本城を備え、西方の剣ケ峰(292.4m)に出城を備えるという二本立てからなっている。
本丸は「天神曲輪」とよばれる長さ約30m、幅約12mの狭長な曲輪で周りの曲輪より10m高く屹立しており、ほかに吉伝寺曲輪と大蓮寺曲輪をはじめ多くの曲輪が存在する。水脈は桜井の井戸、竜ケ沢の泉、鷲沢の井など豊富である。
鰐口(わにぐち)
村指定文化財 工芸(昭和63年3月10日指定)
鋳鋼製、鼓面径53cmという大型鰐口で、鼓厚も、肩厚11.3cm、甲盛りともに大きく、形姿も堂々としている。県下にある中世鰐口のうちでは最大のものである。
正・背面とも撞座(つきざ)は「八葉陽刻」の蓮華文で、中央の中房には中心と周辺に9個の蓮子を中房と花弁の間には、蘂(しべ)を放射状にそれぞれ陽刻する。この撞座を中心に三重の圏線(けんせん)がほば等間隔にめぐる。圏線は中心から二条、子持ち三条、外線二条である。各圏線はやや間隔があくようにあらわされている。雲形耳はあらかじめ鋳型に流して作ったものを鼓面鋳成の際、正・背面の合わせ目からやや中央寄りにすえて付けている。一般には鼓面鋳造時に片耳または両耳を同時鋳造する方法であるが、この例はむしろ異例である。
正面外区に次の陰刻銘がある。
越後州蒲原郡弥彦大明神御寶前鰐口 明應五丙辰八月日
これにより明応5年(1496年)に彌彦神社に奉納されたものであることがわかる。願主などは不明である。弥彦神社から宝光院に移ったのは明治45年の弥彦大火後といわれる。
なお、別鋳の耳を鋳型に埋め込むように据える方法、やや間のびして表される圏線、撞座蓮弁の表現などの特色は、三条市八幡宮鰐口(文明3年)と類似しており、鰐口鋳造上の地方的特色の一つとしてみることができよう。
稲場塚古墳(いなばづかこふん)
村指定文化財 史跡(古墳)(平成6年12月9日指定)
西に弥彦山と矢川の沖積平野、東に広大な新潟平野を見晴らす南北に長い井田丘陵の東縁部に位置している。古墳の頂上の海抜標高は45.33m、麓の水田からの高さは約37mである。この丘陵の広々としたブドウ畑の中で古墳の周辺だけが山林として残され、墳丘の一部は墓地に利用されている。
平成4年、新潟大学の甘粕健教授を中心とする調査団の手で測量調査が実施された。その結果、墳長26.3m(菖蒲塚1/2)の前方後円墳であることが判明した。この古墳は高さ1.72mの後円部から高さ1.28mの低くて細長い長方形の前方部が北東に伸びる「柄鏡形(えかがみがた)」で、越後では最も古い部類に属する古墳である。
古墳の各所で土器《土師器(はじき)》の破片が発見され、その数は137点に達した。中には赤色の彩色を施したものもあり、古墳の上で行われた葬祭に使われた名残りと思われる。このような風習も前期古墳の特徴である。後円部の上部が削られて段になったところからそら色のガラス小玉も発見された。かつて棺の一部が削られて、内部からころがり出たものと思われる。
また、土器の中に弥生時代後期のものが採集されたことから、当地が弥生時代の高地性集落の可能性も指摘された。
縄文土器 注口瓶(じょうもんどき ちゅうこうびん)
村指定文化財 考古資料(昭和62年3月10日指定)
瓶形をしており、上部に広口の口縁部、前面には上に向くように注口部が付されている。口縁から隆線にかけて、橋状把手がついており、肩が張っていることがよくわかる。胴部上半には沈線文(紋)の文(紋)様帯が、下半は無文(紋)でヘラで磨かれている。これらはいずれも縄文後期の特徴を如実に示している。注口部はわずかながら欠失している。
形状、文様に気品さが見られることから、本瓶は儀式などに用いられ、日常生活には使用しなかったと考えられる。収納もおそらく日常生活用具と別に格納されていたため、生活用具は破損消滅したが、本品は完全な姿で発見されたのではないかと思われる。
この土器は所有者の先代当主故渡辺藤吉氏が昭和7年頃、揚枝潟客土のため水路掘削中、井田長表地内の所有する水田地下約1mで発見した。付近には井田山丘陵地帯を含め、夷塚とよばれる遺跡があり、以前より土器片が発見されていたが、夷塚遺跡はすでに開発によって埋滅している。
一本杉遺跡(いっぽんすぎいせき)
村指定文化財 史跡(遺物包含地)(平成6年12月9日指定)
縄文時代中期~後期の遺跡で、昭和43年の土地改良事業によって旧畑地の大半が水田化されたが、指定された部分は畑地として残っていて、中央部はやや小高い丘となっている。平成5年、道路改修による一部確認調査を実施したところ、土器片が出土し、また建物の柱の跡等が確認された。しかし遺跡全体の大きさなど全容は不明である。遺跡名のもととなった一本杉とよばれる老杉がここにあったが、平成5年12月の風により中間から倒壊した。現在は一部が史跡公園として保存されている。ここには「種満堂(しゅまんどう)と蛇崩れ(じゃくずれ)」伝説が残っており、昔から石鏃や石斧が多く出土している。
【種満堂の一本杉と蛇崩れ】
蛇崩れは黒滝城跡の南東にあり、半面ほとんど崩れて険しく、絶好の防御線をなした所で、蛇が住んでいて、このように崩したのだという言い伝えがある。
毎年3月9日の朝8時頃になると、山の神(天狗)が集まって水晶石で魔よけの矢の根石を作り、種満堂の一本杉を的にして投げ込む。そんなことがあるものかと百姓の本田良左衛門か早朝鍬を持って種満堂の畑へ行き仕事をしていたら、蛇崩れの万からうなるようなものすごい音が聞こえてきて、鍬の柄にガチリと矢の根石が突き立ったので顔色を変えて逃げ帰った。
今も地元の人は3月9日を山の神の祭りとして仕事を休み、団子餅などを作って畑には出ない。翌日朝早く起きて我先にと争い、矢の根石を拾う例になっているという。
大戸神社算額(おおどじんじゃさんがく)
村指定文化財 歴史資料(昭和61年3月10日指定)
算額は神社や仏閣に自分の発見(研究)した数学(和算)の問題や解法を額に書いて奉納したもので、難問が解けたことを神仏に奉謝する意味のはかに、その問題をひろく人々に知らせる目的もあった。文化文政時代(1804年~1830年)に最も盛んに行われ、数学の進歩に一つの役割を果たした。
本算額は、文政11年(1828年)、酒井松太郎苗貞門人の大戸村諸橋七蔵、川崎村狩野粂七、大戸村諸橋治助、同石河杉松、同諸橋源次郎、同石河藤治郎、同中河惣内、同諸橋幸左ヱ門、同成沢九左ヱ門の9名による奉納で、3つの問題を図示し、これを解答している。
額はタテ74cm、ヨコ180cmの木額でかなり大きなものである。
また、設問及び解答については、専門的に学問したわけでもない当時の小農の若者たちによって、おそらく農閑期に研究されたと思われ、算額まで奉納したことは驚異で注目に値する。
同じく、文政13年(1830年)のもので、大戸村矢野(埜)菊蔵が奉納した算額も村指定文化財歴史資料に指定されている。
宝篋印陀羅尼塔(ほうきょういんだらにとう)
村指定文化財 歴史資料(昭和61年3月10日指定)
本来は宝篋印陀羅尼経を納める塔であるが、中国から我国に渡り、日本では平安末期から作られ、鎌倉中期から墓碑や供養塔として建てられるようになった。ほとんどが石造りである。
この宝篋印塔は、明和8年(1771年)の建立で、高さは基壇から368cm、地上高483cmと大きく、塔身を須弥の形につくり、上部四隅にインド風耳形突起を立て、その中央に数層の段を設けて相輪を安んじた風格ある姿はバランスがとれてみごとである。
塔身にある刻字は風化が進み判読は困難であるが、寺泊港の本間弥平次ほか2人が先祖百歳忌・父母五十回菩提などのために建てたことが刻んであり、建立後230年余を経て当時の姿をとどめている。
矢作奉納里神楽舞(やはぎほうのうさとかぐらまい)
村指定文化財 無形民俗文化財(芸能)(昭和50年11月7日指定)
昭和初期に彌彦神社より、関係の深い矢作の赤崎神社へ舞衣装が下されたのを機に、国上村より里神楽が伝承されたと伝える。戦時中一時中断されたが、戦後になって復活した。毎年4月24日、矢作神社祭礼当日に特設舞殿で奉納される。
昭和36年、第二室戸台風により矢作地内の3神社が倒壊したため、昭和46年3社を合祀し、矢作神社を建立した。この年里神楽保存会が発足した。
現在、宮清祓(みやきよばらい)・地久楽(ちきゅうらく)・田の神(たのかみ)・真苗(まない)・天河(あまがわ)・事代主(ことしろぬし)・久奈戸(くなと)・神勇(かみいさみ)・出雲開(いずもびらき)・鹿島(かしま)・道行(どうぎょう)・四神(ししん)・鏡造(かがみづくり)の13舞が伝わっている。
矢作の二本松(やはぎのにほんまつ)
村指定文化財 天然記念物(昭和50年11月7日指定)
弥彦村大字矢作字釈迦堂の小丘上に相対する2本の老松がある。
幹および高さは各々5.45m、枝は広がって36m四方に及ぶ。弥彦山下千年の風雪に耐えて、緑いよいよ濃く、威容に古武士の風を見る。文治年間、源義経・弁慶主従が奥州落ちの徒次、この木の根方で休息したと伝えている。
義経弁慶腰掛の松と称し次の詩がある。
廷尉曾遭檣内訟 逃奔千里寄潜縦
口聘不滅今尚語 七百年前矢作松
昭和34年「二松保存会」を組織し、積極的に環境整備と保存活動に入り、同43年8月「二松之碑」「二松の由来碑」が建てられた。
菊咲きオクチョウジザクラ(きくざきおくちょうじざくら)
村指定文化財 天然記念物(昭和54年4月10日指定)
約3mの傘状、花は淡紅色で花弁は多くなると200枚にも達する。2段咲きで、初めは外弁が開き、次に内側の花弁が開く。花の寿命は長く、4月中旬から約1ケ月にわたって咲き匂い、しかも花は現形のまましぼんで落ちるのが特徴である。
大正末期、他から苗木を取って現位置に植えたものであるが、いま全国に残っているこの種の「オクチョウジザクラ」は、こ、静岡県三島国立遺伝子研究所及び大阪府の財務省造幣局でこの親木から継木して成長した木が花を咲かせている。
ヤヒコザクラ
村指定文化財 天然記念物(昭和54年4月10日指定)
現在、弥彦山頂展望ビルの前面にある「白山桜」の変種で、日本における桜の大家、三好学博士によって大正9年(1920年)に学名を「ヤヒコザクラ」と命名され、一般に公表されて久しい。
花は中輪単弁、色は白く基部に紅をさす。生態的にはヤマザクラよりは高所に、エゾヤマザクラよりは低所に生えて、その中間に住み分けるというが、本樹は樹齢170年余、胴回り2.6m、樹高は12m余と、弥彦山中に点在する中で最高所、最老齢、最大樹であることを特に評価する。なお、全国的にも貴重な1株とされている。
国登録有形文化財
彌彦神社本殿はじめ25点
国登録有形文化財
東京帝国大学教授伊東忠太工学博士が設計し、当時の新潟県に委託され、直営工事により大正5年に再建されたものです。
平成10年9月2日、「造形の規範となっているもの」として県内では2番目の登録有形文化財として文化財登録されました。
旧武石家住宅「味噌倉」「薪小屋」
国登録有形文化財
平成10年12月11日、「国土の歴史的景観に寄与しているもの」として登録有形文化財に登録。
弥彦公園トンネル
国登録有形文化財
平成23年、登録有形文化財に登録。
旧鈴木家住宅主屋・土蔵
国登録有形文化財
明治天皇が御巡幸で弥彦の地を訪れた際、随行した明治政府の高官岩倉具視右大臣が現在の宮司官舎付近にある弥彦神社の祠官鈴木嘉内宅(当時)に宿泊されました。旧鈴木家住宅は、平成28年に「国土の歴史的景観に寄与しているもの」として登録有形文化財に登録されました。
埋蔵文化財遺跡