弥彦の昔話

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彌彦神社にまつわる伝説

キコリの化石(きこりのかせき)

「妻問石」「口あけ石」と呼ばれる話です。
昔、寺泊地方を野積といいました。そのころ、この付近に海賊が出没して漁師を殺害し、船や金品を強奪していました。人々はこれを恐れて、当時、大和から越後に派遣されていた彌彦の神に訴えました。彌彦の神は、さっそく海賊を征伐し、奪われた品々を陸揚げして村の人たちに返しました。その品が海岸に山のように積まれたので、野積(のづみ)と名付けられたのだそうです。
彌彦の神は大和を出るとき、美しい妃を残してきました。女は足手まといになるという理由からです。しかし、一人残された妃は夫に会いたくて、ある日大和を出て越後に向かい、野積の近くまで来ました。これを人づてに聞いた彌彦の神は、もうしばらくすれば越後の平定が終わるのに、今妻に来られては大変だ、と黙って山の中に隠れることにしました。
ところが、山へ登る途中で、一人のキコリに会いました。神は、どうせ妻は自分の後を追ってくるに違いないが、その時、キコリに自分のことを話されては困ると思い、
「私をたずねてくる女がいるだろうが、絶対に話してくれるな。もしも、約束を破ると、おまえを石にしてしまうぞ。」
と言い渡して、山に登りました。
妃がキコリに会ったのは、それから2・3日後でした。案の定、妃は神の行方をたずねました。キコリは神の言葉を思い、話すのをためらっていましたが、目の前で哀願している妃の姿をみて、気の毒になり、つい行き先まで話してしまいました。
すると、妃の見ている前で、キコリはたちまち石になってしまいました。驚いた妃は石にとりすがってわびましたが、石は秋のにぶい陽を浴びて転がっているばかりでした。妃は自分の仕打ちを悔い、恋しい夫に会うのをあきらめて、そこに草庵を建て、一生、石になったキコリの霊を慰めて暮らしました。
この石は、今も妻戸神社の一隅に置かれているといいます。

安麻背(あまぜ)

神代の昔、彌彦大神が越後開拓のため野積に上陸した当時のことです。弥彦山裏側にあたる日本海に面した海浜一帯に、安麻背と名乗る凶賊が、たくさんの部下を従え、近隣を荒らし回り、多勢の婦女を略奪して、善良な住民から恐れられていました。
安麻背は身長が1丈6尺余り(約4.8メートル)もあり、海中に飛び込んで素手で大魚をつかみ取り、けものを素手で打ち殺すほど力が強かったそうです。住民たちの話で、手ごわい相手と感じた彌彦大神は、部下と相談し、一計を立てました。
安麻背は浜辺の岩屋で大勢の手下を相手に酒盛りの最中でありました。彌彦大神は、
「大和朝廷より越の国の王である貴方に賜るために、特に鍛えた剣である。刃の鋭さは大岩を断ち割り、荒波をも二つに分かつほどすばらしい。また、酒は、特に醸した天下一の美酒。多いに飲んで賞味されたい。」
と、一振りの美しい長剣と香り高い酒を安麻背に手渡しました。
よろこんだ安麻背は、さっそく自分の腰に付けていた山刀と取り替え、彌彦大神の一行を座に迎えて、贈られた美酒で乾杯しました。
宴もたけなわとなり、ころあいをよしとみた彌彦大神は、そこで、
「これから浜辺に出て、差し上げた剣で貴方のすばらしい腕前のほどを見せてほしい。」
ともちかけました。
酔いも回り、上機嫌の安麻背は、
「ヨーシ。」
と、求めに応じて外に出て、
「いでや、わが腕前のほどを見せん。」
と、腰の長剣を引き抜くと、波打ち際の大岩にハッシと振り下ろした。
ところが、折れないと思っていた剣は、根元からポッキリ…。
「計られた!」
と安麻背が気付いたときは、すでに遅かった。彌彦大神に胸元に剣を付きつけられ、縄でしばりあげられてしまいました。
しかし、彌彦大神はその後、捕らえた安麻背をよく諭し彼も改心を誓いました。以後、安麻背は彌彦大神の家臣となり、浜の開発と漁業の振興に励み、大いに栄えたといいます。
安麻背のものがたりは、現在の間瀬浜開拓の由来ともいわれています。

彌彦大神の雷退治(やひこおおかみのかみなりたいじ)

大昔、彌彦の大神様がある夏の一日、米水浦(野積の浜)で、里人たちに一生懸命塩を作る方法を教えておられました。
一日がかりの作業で、夕方にはたくさんの塩ができあがりました。皆が大喜びの最中、突如として雷鳴が轟き、一天にわかにかき曇って、夕立がザーッと降り始めました。みるみるうちに、せっかくできあがったたくさんの塩をすっかり雨で流されてしまいました。
彌彦大神様は大層お怒りになり、さっそく天に呼びかけて雷どもを集め、厳重に戒められたので、恐れ入った雷連中は、
「申し訳ありません。今日以後は、絶対にこの地方では雷を鳴らさず、夕立も降らしませんから、どうぞお許し願います。」
とお詫びして固く誓約したとのことです。
このような理由で、弥彦山には夕立も降らず、雷も鳴らないと言われています。
彌彦大神の雷退治にはもう一つ伝説があります。
彌彦大神様が、ある夏の夕方、弥彦山中を巡視されている時に、にわかに雷鳴が轟き、夕立が降ってきました。驚いた大神様は、雨宿りをされるために山道を走っている途中、道ばたのウドの鋭い新芽に目をつつかれてしまいました。
大神様は、さっそく、雷とウドに厳重に注意したので、恐れ入った雷は、
「以後は絶対に弥彦山の上で雷を鳴らさず、夕立を降らしません。」
と誓い、ウドは、
「これからは弥彦山には絶対に繁殖しません。」
と誓ったといわれます。
現在でも弥彦山でウドをみることは、きわめてまれです。
この彌彦大神様の雷退治の伝説に由縁して、昔はこの地方の民衆の間に、
「彌彦様は雷除けの神様である。」
との信仰があり、そのお守りとして御神札をいただいていく風習があったといわれます。
今はこの地方では、このような信仰は聞きませんが、遠く離れた群馬県・茨城県・埼玉県などの地方で、「越後一之宮お彌彦様雷除け」の信仰があり、彌彦神社の御神札をいただく風習がなお残っているといいます。
昔は、関東一円に毒消し売りに出かける売り子さんたちが、信仰者から依頼されて彌彦神社の御神札をいただいて、年に一回届けてやったという話も語り伝えられています。

津軽火の玉石(つがるびのたまいし)

慶長年間(1596~1615)、弘前(現・青森県弘前市)の城主、津軽信牧候が、江戸表より航路帰国の途中のことです。佐渡沖合を通過する際、にわかに暴風雨に遭い、みるみる大波のため、御座船がくつがえらんばかりになりました。
かねてより、彌彦大神の御神威の広大さを聞いていた殿様は、激しく揺れ動く船中から、はるかに弥彦山に向かって鳥居奉納を誓って神助を願ったところ、たちまち海は静かになって、一同は無事、帰国の途につきました。
それからは、毎年使いをつかわして礼参を続けていましたが、鳥居献納のことはそのままに過ぎていきました。
すると不思議なことに、しばらくすると、毎夜のように、天守閣を中心に城内を二つの火の玉が大きなうなり声を発しながらぐるぐる飛び廻る、という異変が起こりました。城中一同は、毎夜毎夜、この現象にすっかり悩まされるという大騒ぎになりました。
驚いた津軽候は、さっそく城内をくまなく調べたところ、この二つの火の玉石はちょうど大人の頭ほどの大きさの石であることが判明しました。
津軽候は心中深く思いをめぐらしたところ、彌彦神社に自分の誓願を果たしていなかったことを思い出し、さっそく工事にかかり、元和3年(1617)9月、めでたく大鳥居を奉納したと伝わります。
同時に、この霊威を示した火の玉石もいっしょに彌彦神社に納められました。
現在、この二つの火の玉石は、俗に「津軽火の玉石」「重い軽いの石」と呼ばれ、表参道神符授与所前の一角に安置されており、昔から、心願のある時これを持ち上げられれば事は成就し、重くて上げられない時はかなわないと言われ、今も熱心にお祈りしている人々を見かけます。

九鵙(くもず)

九鵙は、大昔、守門岳のふもと刈谷田川の流域にはびこっていた賊の首領です。水練に達し、暴行を働いて、追い詰められると川に逃げ込み、淵に沈んで幾日も出てこないということです。
この様子をつぶさにご覧になった天香山命(あめのかごやまのみこと)は、臣下に命じて、たくさんの「しょうが」を集めさせ、これを砕いて赤土と混ぜ合わせ、上流から淵に投げ込ませました。すると九鵙は耐え切れなくなって、浮かび出てきました。そこを捕らえて、その非を悟らせ、今後は人民を害さないことを誓わせて釈放したそうです。

十宝山の御神鏡物語(とだからやまのごしんきょうものがたり)

彌彦大神が越後地方開拓経営の大任を帯びられて多数の部下を引率し、はるばると大和の国より若狭湾に出て、ここから天の鳥船に乗船し、日本海を北上して米水ヶ浦(寺泊町野積浜)に上陸されたのは、神武天皇御即位後4年目の年でありました。
大神様はこの時、大和朝廷からたくさんの天璽瑞宝(てんじずいほう 十種の神宝)を持参されました。
さて、越後地方開拓の大業がようやく一段落した時、この持参された御神宝類を十宝山(とだからやま)の頂上に埋納せんとお考えになり、その作業を重臣の一人であった稚彦命(わかひこのみこと)に命ぜられました。
命を受けた稚彦命は、さっそく長男の小稚彦(こわかひこ)を始め、家臣一同と共に十宝山の山頂に登り、幾日もかかって大切な埋納作業を行いました。さて、いよいよ作業も終わりに近づいたある夜、たくさんの宝物類の中でも一番大切な御神鏡が紛失している事が判明しました。
さあ大変!
驚いた稚彦命を始め、家臣一同必死になってあちこち手分けをして探し廻りましたが、御神鏡は一向に発見できません。
困り果てた稚彦命は、この上は一死をもって大神様にお詫びせんと覚悟を定め、急ぎ下山して恐る恐る御神鏡紛失の事を申し述べました。
彌彦大神は静に論して曰く、
「死んで詫びることは誠に簡単である。しかし、死んで詫びたからといって、大切な御神鏡が発見されるわけではない。殊に、永年私といっしょに越後地方開拓のために苦労をともにした家臣である。よって、本日より暇を与えるから、時間を惜しまず、十分に念を入れて御神鏡の行方を探し出すようにせよ。」
と命じられ、探索の旅にあたって、一振りの神剣を授けられました。
恐れかしこまった稚彦命は、さっそくその足で長男の小稚彦一人だけを供に連れて、いよいよ御神鏡探しの長い旅路に出発しました。
それから十数年が経ちました。御神鏡探索の旅は歳月のみ空しく過ぎ去り、一向に捜し求める事もできないまま、稚彦命はすっかり寄る年波に白髪と変わりました。
ある晩秋の一日、北辺のとある海浜にたどり着いたとき、疲れと悲しみのあまり、ついに一軒の漁師の家で病の床についてしまいました。今は立派に成長してたくましい若者に育った長男の小稚彦を枕辺に呼び寄せ、稚彦命は涙ながらに言いました。
「私はこの寂しい浜辺で志も空しく死んでゆくが、お前はこの父に代わってあくまでも御神鏡を探し出し、弥彦でお待ちになっている大神様にお届けし、父の不忠をお詫びするとともに、この父の分までお仕えして忠勤を励めよ。」
小稚彦は詮方なく、病床の父の看病を漁師夫妻にくれぐれも頼み、父が出発の際大神より授けられた神剣を背に、再び一人で御神鏡探しの旅に出発しました。
さて、その年も過ぎて、再び春がめぐってきたある夕暮れ時、小稚彦は大きな山の麓にある小さな小屋の軒先にたどりつきましたが、疲労の余り、そのままうとうとと眠り込んでしまいました。
深夜、ふと気がつくと、小稚彦の枕元に上品な白髪の老夫婦が座ってさめざめと泣いているではありませんか。
驚いた小稚彦は、
「どうした訳か、なぜ二人してここで泣いているのか。」
と尋ねると、
「何を隠しましょう。私ども老夫婦は、実は永年この先の山の頂上に棲む白鳥であります。あなたがお父さんといっしょに永年探し求めています彌彦大神様の御神鏡の行方を知っている者です。お探しになっている御神鏡は、この山奥深くにひそんでいる大鷲が持っています。
実はこの大鷲は永年にわたって猛威をふるい、私たちのかわいい子どもや孫を年々喰い殺してしまい、本当に困っています。彌彦大神様の大事な御神鏡も、実はこの大鷲が十宝山頂から盗み取って来たのです。
しかし、今日、あなたがここへ来られたのは決して偶然ではありません。彌彦大神様と、病の床であなたの手柄をお待ちになっているお父さんのお導きと思います。あなたの忠臣孝子のお心には必ずや天の祐けがありましょう。
どうぞ、この大鷲を征伐して、御神鏡を取り戻すとともに、永年苦しめられてきた私どもの難儀をお救いください。」
と、涙ながらに語り終わるや、すーっと姿が消えてしまいました。
ハッ!と目覚めた小稚彦は、
「さては今のは夢であったか!」
と驚いてあたりを見渡すと、既に白々と夜も明け始め、上空には二羽の大白鳥があたかも道案内せんとする様子で、ぐるぐる輪を描いて飛んでいる姿が見えるではありませんか。
「これこそ正夢。」
と、喜び勇んで小稚彦はすぐさま身支度も厳重に、かの白鳥の飛んでゆく跡を追いました。そして、山奥深く踏み入り、やがて山頂の大岩に止まってランランと目を光らせている大鷲を発見しました。よく見ると、まさしくかたわらの巣の中には、永年探し求めた御神鏡が見えるではありませんか。勇躍した小稚彦はすぐさま彌彦大神より授けられた件の神剣を振って大鷲に立ち向かいました。
力戦奮闘することしばし、ついに神剣を振りかざして見事大鷲を退治し、ここにめでたく御神鏡を取り戻すことができました。
喜びの涙にくれる白鳥に見送られながら、病の床にある父のもとへ夜を日についで急いだ小稚彦は、今や、まさに息もたえだえの稚彦命の枕元へようやく帰り着きました。さっそく、件の御神鏡を取り出したところ、その霊気によりたちまち稚彦命の病気も全快しました。急いで弥彦の宮居へ立ち帰って、この様を報告せんとしたところ、彌彦大神はこの現世を神去りました後でありました。
父子は、永年辛苦の結果、ようやく取り戻すことができた御神鏡を大神の御廟前に供え、天を仰ぎ、地に伏して嘆き悲しみましたが、今やなすすべなく、彌彦大神の命のまにまに再び十宝山頂に深く御神鏡を埋納し、以後、長くそれが守護にあたったと伝わります。
十宝山頂、十種の神宝埋納にちなむ伝説です。

四足二足(よんそくにそく)

天香山命(あめのがごやまのみこと)は、孝安天皇元年2月2日、一世の功業を終えて亡くなられ、山頂に葬り申し上げました。
あるとき第二世五田根命(いつたねのみこと)がお墓参りに上られると、白い鳥が稲穂をついばんできました。一方からは黒い鳥が鮮魚を含んで飛んできて、共にお墓に供えて飛び去りました。五田根命はこれをご覧になって、
「鳥類も心あって父神のご霊前にお供えするのだろう。」
とその優しい心根に感動され、そのときから四足二足(鳥類)の肉を召しあがれないようになりました。
弥彦の社家や住民が近代になるまで肉や卵を食べない慣わしがあったのは、その風習に由来するものと伝えられています。

弥彦の歴史に関する伝説

矢立神社旧跡(やたてじんじゃきゅうせき)

彌彦神社外苑弥彦公園の丘陵に御殿山(ごてんやま)と呼ばれる小高い頂きがあります。ここは昔「矢立山」といわれ、頂上に矢立神社があったと伝わります。
彌彦神社の御祭神天香山命が、三島郡野積浜に上陸され、猿ヶ馬場峠を越え、桜井の里にしばらく休息されて後に、弥彦の里に入られ、最初に宮居を定められた旧跡であると伝えられています。
一説に、昔はこの山を夷山(えびすやま)と呼んだとも言われますが、それは観応年間(1350~1351)に夷人が彌彦神領に来襲した折、一夜のうちにこの山を占領して城を築き上げたためだといわれています。
ときに、彌彦神社の神官一同は神領民と力を合わせ、この夷人を討伐し、追い払いましたが、この戦にあたって神官の射放った矢が山の頂上に立った所に夷人討伐の記念として社を建てて彌彦大神を祀ったのが矢立神社・矢立明神であるといわれますが、今は昔の面影もありません。
現在の弥彦地内、矢楯・矢立と呼ばれる地名のおこりでしょうか。
この夷人来襲にあたって戦利品として奪った大刀が、現在彌彦神社に宝物として陳列されている「夷太刀」-大陸式直刀-でしょうか。
また、井田丘陵にある蝦夷塚(えぞづか)の岩屋と言われる地域は、このとき来襲した夷人を葬った墓地の旧跡であると伝わっていますが、楊子潟(ようじがた)埋立工事の際削り取られ、現在はほとんど跡をとどめていません。

黒鳥兵衛の乱とカンジキ(くろとりひょうえのらんとかんじき)

彌彦神社の東方に「森林浴の森100選」に選ばれた城山森林公園があり、散策など憩いの場として親しまれています。
その昔は、春から秋にかけて桔梗(ききょう)の花が咲き乱れていたという史跡「桔梗城」址は、現在は、空堀(からぼり)・館址(たちあと)などの形跡が残るのみです。
古伝によれば、後冷泉天皇の御代、天喜年間(1055)に源氏の一族源頼光の部下であった吉川宗方(きちかわむねかた)という武士が、都からはるばる弥彦の里に移り、桔梗ヶ嶽の頂に初めて城を築き、桔梗城と名付けたといいます。
桔梗城からそう遠くない蒲原郡黒埼村(現・西蒲原郡黒埼町)の的場山に砦を築き、領民たちも多くの被害を受けていた凶賊がいました。次々と悪い仲間を集め、自らも不思議な妖術を使って、一帯を荒らし廻り、彌彦神社神領もしばしば侵されました。その名を黒鳥兵衛詮任(くろとりひょうえあきとう)といい、奥州・安倍貞任(あべさだとう)の一族で、前九年の役(1051‐1062)で、源頼義・義家父子に敗れ、越後に落ちのびてきたといわれます。
この訴えを聞いた源頼義はさっそく、黒鳥兵衛討伐を決意し、当時、勅勘を受けて佐渡島に流罪となっていた次男の加茂次郎義綱(かもじろうよしつな)を呼び戻し、討手の大将に命じました。
義綱は勇躍して佐渡より弥彦に移り、桔梗城主吉川宗方と作戦を練り、都から駆けつけた家臣の他、近隣の豪族に檄を飛ばして討伐軍を組織し、的場山の黒鳥軍との戦いの火ぶたが切られました。時に康平6年(1062)冬のことでした。
だが、戦いは、降り積もった雪や兵衛の妖術に手こずり、一進一退を続けました。特に1メートルを超す深い雪は最大の障害になりました。
さすがに寄せ手の加茂次郎義綱、吉川宗方の軍勢も攻めあぐんでいました。そんなとき、とある大雪の降った朝、広い雪原の上に、霊峰弥彦山の方角から飛んできた数羽の白鳥が、それぞれ嘴についばんできた枯れ枝をポトリ、ポトリと雪の上に落とすや、静かに舞い降りてその枯れ枝の上に止まって羽を休ませました。
じっとこれを見ていた義綱、宗方の二人は互いに顔を見合わせるや、はたと膝をたたきました。二人は相談して、さっそく部下たちを呼び寄せ、密かにあることを命じました。待つこと数刻、武士たちはそれぞれ手に手に妙な道具を持って集まってきました。
それぞれが手にしたのは、しなやかな竹や木の枝を手際よく折り曲げ、縄をくくりつけた異様なものでした。一同は、この品を次々と自分の足に取り付けて、そろりそろりと降り積もった雪の上を歩いてみると、実に具合よく雪に埋れずに雪原の上を行動できるではありませんか。
まさしく、これこそ彼の白鳥に託した彌彦大明神のご託宣なり、と喜び勇んだ寄せ手の一同は、密かに日暮れを待って、義綱・宗方自らを先頭に、砦近くまでしのび寄り、一挙に攻め込みました。中でも、討手の大将加茂次郎義綱は自ら大太刀を振りかざして黒鳥兵衛目指して進みより、互いに激しく太刀を合わせて戦い、ついに兵衛の首をはねました。
そのとたん、天地にわかに鳴動して、黒鳥兵衛の首は天高く飛び上がり、口から火炎を吐き出しつつ、義綱の頭上めがけて、形相すさまじく飛びかからんとしましたが、間一髪、見るよりも早く飛んできた白鳥が羽音も高く兵衛の首に襲いかかり、鋭い嘴でつつき、たちまち地上に叩き落しました。
ここにおいて、さしもの黒鳥兵衛の妖術も敗れ去り、討伐は大勝利を収めたのでした。
かくて、義綱は兵衛の首と胴体を別々の石びつに入れて、土中深く埋没し、その上に一社を建立して永久に兵衛の妖術を封じ込めました。
現在の黒埼町緒立八幡宮がこの神社であると伝わっています。
義綱たちが使ったこの道具は「カンジキ」で、越後地方での発祥といわれています。年々雪も少なくなり、除雪機の普及で弥彦周辺では「カンジキ」を履く人もほとんど見られなくなりましたが、山間地や豪雪地帯では、今も使用されています。

親鸞聖人刻み分け伝説(しんらんしょうにんきざみわけでんせつ)

林部市左衛門は、滞在中の聖人に朝夕給仕する間に化導を受けて熱心な信徒となり、お別れした後も東国や都へ折りにふれて馳せ参じて教えを受けました。寛元3年(1245)聖人73歳の折に、何回目かの上京した時、布教のため再び弥彦へ下向されるようお願いしましたが、すでに高齢でかなわぬから形見にといって、自ら自像を刻んで与えられました。市左衛門は感喜して持ち帰り、同志にも披露して、一同久々で聖人にお目にかかった気持ちになって信心を固くしました。
その後、神社の周辺で仏の教えがはばかれるような世になったとき、紙に包んで天井につるしたままで年を経ました。
明治初年に縁あって岩室村石瀬の浄泉寺(じょうせんじ)に迎えられ、現在は同寺でていねいに朝夕のお給仕をされています。
また、弥彦界隈には、社参に訪れた親鸞が、祈願成就のため自己の木像を彫り、半体まで制作しかけたところに、伊夜比古の神の化身の老人が現れ、親鸞の話を聞いて、祈願が叶うよう、もう半体を制作されたという伝説があります。
また、社参祈願の成就に感謝して聖人自ら自身の像を彫られたという伝説も伝わっています。
※三条市安楽寺所蔵の親鸞像
もと彌彦神社神主高橋家の小堂に安置されていたもので、文政9年(1826)に浄土真宗仏光寺派本山への寄付という形式で、「聖人清水」脇に移され、その後文政11年(1828)から天保11年(1840)10月まで矢作(やはぎ)の法円寺に保管、同月安楽寺に移されたものです。容姿・袈裟・手の位置とも通常の親鸞像と大きく異なり、その独特の雰囲気は作成の事情を物語っています。
※弥彦村宝光院所蔵の親鸞像
もとは神宮寺阿弥陀堂内にあったものが、廃仏時に本地仏とともに焼却命令の対象となっていましたが、焼却命令がいったん中止され、出雲崎役所へ一時預けされた後、本地仏とともに移動し、再建された宝光院阿弥陀堂に戻ったものであるといわれます。両手は数珠を持った形状をしていますが、数珠はすでにありません。
※岩室村菅井キヨ宅所蔵親鸞像
もと真言院(護摩堂)に安置されていたものであり、明治元年(1868)菅井家にうつったものです。同家には、
-御一新のことのある晩、甘露(菅井家の主人)は夢をみた。枕元に親鸞聖人が立って、「私は弥彦の親鸞だが、御一新のため燃やされようとしている、助けてほしい。」と訴える夢だった。驚いて跳び起き、弥彦へ駆けつけたところ、いままさに聖人の御木像が火に投ぜられようとしているところだった。甘露が焼却だけはやめてほしいと必死に嘆願した結果、夢告(ゆめつげ)に免じて貰い受けることができた。-
という口伝があります。
※吉田町溝古新清伝寺(みぞこしんせいでんじ)所蔵親鸞像
廃寺の時点まで弥彦にあったものを救い出したという伝説があります。

親鸞聖人手植えの椿(しんらんしょうにんてうえのつばき)

弥彦で林部四郎左衛門家に立ち寄った聖人は、四郎左衛門の弟林部市右衛門方にしばらくの間、杖をとどめて教えを説いていました。市右衛門家は後に助右衛門、七右衛門とも言われたそうです。
当時、愛用の椿の杖を聖人自ら同家の裏庭に植えたものが、成長して枝下3間の大樹となりましたが、天保の大火で焼け、現存するものはその2代目です。明治時代までは巡拝の信徒が、よくその葉をいただいていったといいます。
住む宿の 栄うためしを 玉椿
  八千代経ぬとも 春秋の色
       浪花の人たけよし記す
              (林部家所蔵)

観音寺温泉と侠客観音寺久左衛門物語(かんのんじおんせんときょうかくかんのんじきゅうざえもんものがたり)

弥彦から北国街道を上赤坂・矢楯と行くと続いて観音寺温泉があります。
遠く千年の昔、弥彦に住む狩人権九郎によって集落の前方熊ヶ谷の丘陵に霊泉が発見されました。更に200余年さがって堀川天皇の御代応徳元年(1084)に、観音寺集落にも湯脈の連なりが発見されるに至ってにわかに栄え、永く彌彦神社の神領として続いてきました。
また、伝説として語り伝えられるところでは、源頼義の次男加茂次郎義綱が弥彦庄司吉川宗方と共に黒鳥兵衛を討伐した際、戦に傷ついた武士たちがこの観音寺温泉で治療して傷をなおしたといいます。
この観音寺に住居して、往年北国第一の侠客と謳われた松宮雄二郎直秀こと、俗称観音寺久左衛門の事蹟も今日では遠い昔話になってしまいました。
松宮家がいつごろからこの地に住んでいたのかよくわかりませんが、伝説では、遠く江戸時代の初期、関東地方のさる高名の武士がこの観音寺に落人として逃れ住み、たまたま時の上杉管領より十万石の格式で家臣になるよう要請されましたが、これを断り、それではせめてもと管領家より槍一筋と陣笠1ヶ・陣羽織1着・人々の祝い事ある時の酒宴用の盃1ヶを拝領したと伝わります。
当主は代々久左衛門と名乗り、集落の民はもとより近郷近在の信望厚く、時代時代の当主久左衛門はそれぞれに侠気があり、その侠名は全国に広がり、「江戸で長兵衛、北国で久左衛門」と並び称され逸話もまた多かったといわれます。
江戸の大相撲、雷電為右衛門が越後地方巡業の年、あいにくと水害のため不作で嘆き悲しむ農民相手に相撲興行も打つことができずに困っていた時、当時の当主久左衛門はポンと胸をたたいて一行数十人の力士を世話したそうです。かつまた、半年も興業に力を貸して広く近隣の農民を招待して喜ばせ、雷電為右衛門一行を無事に江戸へ送り帰したといわれます。
幕末における松宮家最後の当主松宮雄二郎直秀は、当時有名だった上州の侠客大前田英五郎(おおまえだえいごろう)、国定忠治(くにさだちゅうじ)とも親交があり、彼らも時には久左衛門宅へワラジを脱いだと言われます。また、万延元年(1860)桜田門の変で大老井伊直弼を誅した水戸浪士2名が越後へ逃れ、久左衛門の庇護を受けたと伝わっています。
明治の御維新に際し、久左衛門は長岡藩の英雄河合継之介(かわいつぎのすけ)と密約を結び、会津征討の官軍を島崎村(現・三島郡和島村島崎)に迎え撃った時は、猩々緋(しょうじょうひ)の陣羽織を着用し、頭に陣笠をいただき、数多の子分を引き連れて戦い、その勇猛ぶりは官軍方を驚かせたといわれます。
長岡藩の恭順によって戦闘も不利となり、久左衛門はついに米沢の上杉藩へ落ち延び、明治6年(1873)6月10日、68歳で病死したといいます。
官軍方は、観音寺集落に進軍するや、松宮の一族を始め主だった子分の家をことごとく焼き打ちにかけ、罰したといわれ、この火災により松宮家の主な文献、建物その他一切が失われてしまいました。
今、松宮家の広大な邸跡は集落の中央を走る村道(旧県道)の山手に面した北越農事の園芸地として残っています。
最後に、代々の当主観音寺久左衛門の逸話として語り伝えられている数々を記します。
1.大事が起きた時は、久左衛門の廻状一本でたちどころに千人を超す屈強な子分が近隣近在から駆けつけた。
2.久左衛門は観音寺集落に生活している時は絶対に絹物を身につけなかった。
3.仲裁事や掛け合い事に出かける時は、絶対に刀は持参せず、子分を一人も連れて行かなかった。
4.毎年年の暮れになると、村中の生活に困っている家々をこっそりと廻り、人知れず障子の破れから1分、2分の金を恵んで歩いた

種満堂の一本杉と蛇崩(しゅまんどうのいっぽんすぎとじゃくずれ)

大字麓から大字村山に通じる県道のかたわらに、やや小高く盛り上がった塚があり、ここに頭の部分を折られた老杉が一本あります。
伝説によると、昔はこの付近一帯は沼であり、その中に小さな鳥喰島(浮島)があって、ひとつの神明様を祀るお堂があったことから、島堂と呼ばれていたそうですが、いつか訛って「しまんどう」といわれるようになったといいます。
その少し西に一本の大杉がありました。
また、一説には、このお堂に鳥を喰わぬという誓いをたてて祈願を込めると、俗にいう脚気、種満がなおるといわれたところから、村人たちに「種満堂」と呼ばれるようになったといいます。
昔からこの付近一帯に、石斧や矢の根石(石鏃)などが発掘され、俗に「天狗のめしがい」と呼ばれる石鏃に似て、ちょっと形の異なった石片類が出たとのことです。
この「天狗のめしがい」といわれる石片が国上山蛇崩(じゃくずれ)の天狗の伝説につながっています。
蛇崩といわれるのは、国上山の頂上の一角、北側半分がほとんど全部崩れて険しい場所です。昔の人は、この場所は人工や自然現象で崩れたものではなく、大昔この地に棲んでいた大蛇が尾を振って崩したのだと語り伝えています。
この蛇崩の国上山には天狗(山神)がたくさん住んでいて、毎年3月9日の朝5ッ時(午前8時)天狗一同が蛇崩に集まり、水晶石で作られた魔よけの矢の根石を次々に種満堂の一本杉を的に定めて射放ったといわれます。
いつのころか、麓のお百姓さんが「山の神さんが矢を射放つなどとは嘘だ」といって、3月9日の朝、いつものように鍬(くわ)をかついで種満堂の畑に行きました。仕事をしていて、突然ビューンとうなる大きな物音が蛇崩の方からしてきたと思った瞬間、ちょうど振り上げた鍬の柄にガチリと矢の根石が突き立ったので、何もかも放り出して命からがら逃げ帰ったといいます。

酒呑童子(しゅてんどうじ)

弥彦山周辺の伝説のなかで代表的なものの一つが、この酒呑童子の物語です。
童子の生まれ故郷は、蒲原郡砂子塚(現・西蒲原郡分水町砂子塚)だといわれています。
童子が生まれたのは、天暦2年(948)です。名を外道丸といい、両親は貴族の血筋を引く上方の人のようでした。幼少のころから大変な暴れん坊で、10歳ころになると、生まれつきの美男ぶりはますます光を増し、体つきもたくましくなり、知恵も腕力もすぐれていましたが、乱暴ぶりにも輪がかかりました。両親はひどく心配し、霊場で名高い国上寺に稚児として差し出し、仏の道や学問の教えによって修行させることに決めました。
国上寺は和銅2年(709)、彌彦大神の神託によって建立された越後最古の名刹です。稚児は神社の祭礼の際、給仕に使われる少年で、神楽も舞います。童子は寺へ上がると、乱暴をピタリとやめ、熱心に仏の道と学問に励むようになりましたが、何分にもまれにみる美男子とあって、その稚児ぶりは越後中に広まりました。
稚児たちが彌彦神社へ通う道を「稚児の道(稚児道)」と呼ぶが、その道すがら振り袖姿の童子のたもとには、たくさんの娘たちから恋文が投げ入れられ、一目見たいと国上寺へ日参する娘たちの数は増えるばかりであったそうです。しかし、童子はこのような騒ぎに一切目もくれず、ただ一筋に仏の道と学問にいそしんでいました。
その童子が16歳に達したころから奇妙な風聞がたちました。近郷の若い娘たちが原因不明の病気で次々死に、いつしかそれは、童子に恋い焦がれた娘たちがかなわぬ思いに悩んだあげくの狂い死にではないかというのです。
娘心の執念の恐ろしさを聞いた童子は、ある日密かに、これまで開封せずに行李に投げ込んだまま、一杯になっていた恋文を焼き捨ててしまおうと、行李のふたをあけました。その瞬間、モウモウと噴き出した異様な煙とともに、美しい童子の顔は見るも無惨な鬼の形相と化し、飛鳥のごとく、信州・戸隠の方向へ飛び去ったということです。
国上寺の近くには、寺を追われた童子が岩屋に隠れ住んだという場所が残っています。
また、後日談になりますが、童子は長岡の森立峠(もったてとうげ)で茨木童子らを家来にし、盗賊の首領になりました。最後は丹波国大江山の岩屋に住みつき、京都の都を荒らし回りましたが、これを時の帝の命を受けて、山伏姿に変装した源頼光とその部下、渡辺綱、坂田金時など四天王が退治したという伝説は有名です。
童子がかつて彌彦神社まで通った「稚児道」は国上寺から神社まで約4キロメートルあります。一部崩壊した部分もありますが、ほぼ、原形をいまに残しています。また、国上寺には「酒呑童子絵巻物」や、童子が使ったという朱塗りの「大盃」が寺宝として保存されています。

玄翁和尚と「げんのう」(げんのうおしょうと「げんのう」)

大字矢作に慈眼寺(じげんじ)という寺があり、ここの本堂に同寺開創者といわれる玄翁和尚自作の「枳尼天像(だきにてんぞう)」が安置されています。
この玄翁和尚は姓を源、名は心照といい、矢作の出身です。母は麓の観音寺本尊正観世音に祈願をこめて嘉暦元年(1326)に出生したといわれます。
その出生の因縁で、5歳の時から国上寺へ上がって修行を積み、真言密教の哲理を学び、19の歳相模国(今の神奈川県)総持寺(そうじじ)に移りました。当時名僧智識といわれた峨山紹碩(がざんじょうせき)の仏弟子となって熱心に修行し、ついに禅師のあとを嗣いで総持寺住職となり、数多くの仏弟子の中よりたくさんの名僧を育成しました。
後に、伯耆国(鳥取県)の名刹退休寺(たいきゅうじ)の開基となり、下総国(千葉県)の名刹安穏寺(あんのんじ)、会津(福島県)の名刹慶徳寺(けいとくじ)、また、下野国(栃木県)の名刹泉渓寺(せんけいじ)などを創設しました。
修行中に父祖菩提のため矢作村に帰り、文和2年(1353)慈眼寺を建てましたが、応永3年(1396)71歳で大往生したと伝えられています。
この玄翁和尚の那須野ヶ原殺生石退治の伝説は、謡、能の「殺生石」でよく知られています。
殺生石の伝説をお話します。
昔、宮中で時の帝を弑逆しようとした玉藻前(たまものまえ)という女官(実は中国から飛来した金毛九尾の狐)が、悪事が発覚して都から逃れ、那須野ヶ原で殺生石に化け、付近を通る旅人や動物、石の上を飛ぶ鳥などを妖気で殺し、人々から恐れられていました。当時、泉渓寺住職であった玄翁和尚がその話を聞いて、早速殺生石のそばへ近づき、手にした鉄槌で粉々に打ち砕いて供養し、その狐の害を取り除いたといいます。
今日の、大工職人が使う金槌・鉄槌のことを俗に「げんのう(玄翁)」というのは、この玄翁和尚が殺生石退治に鉄槌で打ち砕いたところから、名前が由来したと伝えられています。

亀が茶屋と藤が茶屋(かめがちゃやとふじがちゃや)

猿ヶ馬場には2軒茶屋がありました。
麓の「一之坂」から猿ヶ馬場の峠を登りきった所の茶屋が「藤が茶屋」、峠の平から道を少し歩いて、海の見えるところの茶屋が「亀が茶屋」、この2軒です。
いずれも江戸時代の建物で、北国街道の往来が盛んだった時代がしのばれました。
麓から登る人も、野積から来る人も、この峠の茶屋で一息入れたとのことです。上り框が長く、土間には床几、柱には草履がかけてあり、藤が茶屋は猿ヶ馬場鉱泉場とも名付けられ、癒病のために逗留する人も多くありましたが、2軒とも大正のころなくなってしまいました。

林照堂鎌鍛冶(りんしょうどうかまかじ)

麓一区の武石嘉十郎は明治の初年水沢流鎌鍛冶の名人で、近郷に名を馳せた人でした。弟子の若者が製品をかついで地蔵堂町(じぞうどうまち)の市日に鎌の店を開きますと、大勢の客が集まって、鎌は全部売りきれてしまうそうです。日によっては客は先に待っているくらいでした。
あるとき、弟子が嘉十郎師匠に尋ねました。
「地蔵堂町の市日に鍛冶屋を出しますと、客人たちはほかの金物に目もくれず、うちの鎌を買ってくれますのですぐ売れきれてしまいますが、どういう訳なんでしょう。」 と申しますと、師匠は、 「それはそれに違いないのだ。俺が毎日槌を振って鎌を打つのに、どうすればよく切れるか、どうやれば使いやすいか、どうすれば値段を安くできるか、いつもその点に性根を込めて苦心しているからだ。」 と答えたということです。
吉田の文平鍛冶屋さん、富永の鍛冶屋さんなども、ともに林照堂の教えを受けた人たちだといわれています。

村山の開基 川井彦左衛門のこと(むらやまのかいき かわいひこざえもんのこと)

村山の集落を開発された人は、川井彦左衛門といい、その三百年祭りが昭和41年3月24日の祥月命日に村をあげて盛大に行われました。
この川井彦左衛門とはどういう人物か、また、当時の村山地域の状況を述べてみたいと思います。
父は、矢部左馬亮(やべさまのすけ)と名乗り、江州(近江国、現・滋賀県)浅井・高島二郡を領し、7万石の城主でありましたが、大阪落城で浪々の身となり、当時渡部(現・分水町渡部)城主柴田佐渡守と従兄弟でしたので、ここに身を寄せ、やがて城主の嫡女お郷子(さと)を妻にもらい沢蔵人(さわくらんど)と改名し、家老職をつとめていました。
ところが、まもなく渡部城主は三条の城主定明と戦して、渡部扇山城は落城し、城主や家老は命からがら東北に逃げのびました。当時、妻のお郷子は懐妊の身、一時に父と夫を失い、身の置きどころもなく、かろうじて野積村(現・三島郡寺泊町野積)に逃れました。しかし、もとより城主の娘のこと、何の仕事もできず、土地の人々の情けにすがり、塩釜の火たきを手伝いながら生計を立てていました。そうしているうちにいよいよ月が満ちて、9月9日、玉のような男の子を出産しました。9月9日は菊の節句なので、その名を菊千代と命名しました。この菊千代こそ後の川井彦左衛門で、村山地域開発の先駆者だったのです。
母お郷子の一粒種の菊千代。しかも生まれながら誠に賢く立派に成長し、すでに16歳となりました。ある日、母にむかい、 「われはいかなる者の子ですか。」 と尋ねました。母はしばらく物も言わず、やがて涙を抑え、ようよう涙ながらに一部始終を物語りました。菊千代はこれを聞き、こぶしを握り涙まじりに、 「今、母上の物語で承知しました。さてさて氏といい、系図といい、誰にも劣らない。このまま朽ち果てることは誠に口惜しい。一度は城主の幕下に就職し、扶持をもらい、功績の一端をもたてなければ、先祖、近くは祖父・父への忠孝を…と思いを決心し、私に10年の暇をください。この地(野積)は師と仰ぐ方もいません。佐渡は芸能に達した方もおられると聞いています。私は佐渡に渡り、勉強して帰国の上、宿願を果たしとうございます。」 と顔色を変えて母親に頼みました。母もともに喜び、 「佐渡に行くなら、扇山城繁栄の折り勤務していた佐藤弥五郎という者がいる。この者を訪ねてこの物語をいたし、私の子であると話すれば必ず力になってくれるであろう。」 菊千代は喜び勇み、希望に燃えて佐渡に渡り、佐藤弥五郎の紹介等により10年間、諸芸に励みました。
一方、一人野積に残った母は土地の人の薦めにより、糸魚川の浪人で寺泊に来て寺子屋を開き、土地の子どもの教育に勉めていた川井喜右衛門との再婚の話が起きました。なにぶん10年音信もない菊千代のこと、双方で熟議の上、これが決定をみました。
帰村した菊千代は6尺4分、心身ともに立派な男に成長しました。そして母のこの間の事情を聞き、 「我生まれてより父の顔を知らず、今父子となるは過去、世の深いご縁、実父に増す…。」 と喜び、勇み、親子3人水魚のごとく交わり、この後、菊千代は氏を川井、名を彦左衛門と改めました。
彼は、かねてより彌彦大明神を深く信仰し、百日の参詣をし、満参の日、神前に自ら舞を奉納していました。これが長岡城主のご代参、大田佐右衛門(おおたすけえもん)殿の眼にとまり、長岡城主に仕えることになり、領内麓村、藤右衛門(とうえもん)宅へ借家しました。
そのころ、麓村と国上村の山境の争いが絶えませんでしたが、百姓一同ぜひとも山境の争いを解決してもらおうと、麓上奥右衛門屋敷(ふもとかみおくえもんやしき)へ転居してもらい、無事解決となりました。
その後、数々の功績などにより、長岡御役所の免状を得て村山の開発に着手したということです。

麓最後の瞽女おかつ(ふもとさいごのごぜおかつ)

麓二区、近山利兵衛方の主婦おかつは生まれつき目の見えない人でした。終生独身で、瞽女となって生計を立てていました。
勘が良く、毎朝鏡台に向かって自ら髪を結い、いつもきちんとした清楚な服装で、怜悧で温和、村人に親しまれた人でした。歌は元より、三味線のバチさばきには微妙な響きがありました。安倍保名(あべのやすな)「葛の葉」の子別れの曲など、聞こえていても妙音の間に何となく狐のなき声が聞こえてくるように感じられ、  恋しくばたずね来みよ     泉なる   信田の森の恨み葛の葉 かわいいわが子とどうしても別れねばならぬ葛の葉の悲痛な姿が目に見えるほどでした。
かつて朋輩の瞽女と二人連れで三弦を担いで上州の草津まで旅稼ぎしました。ちょうどそのとき、草津へ稼ぎに行っていた村山の大工、三浦寅吉さんが見つけて、 「おや、おかつではないか。目の不自由なお前たちがこの険阻な山奥の町までよく来ることができたな。」 とほめました。
おかつの住宅は、いつ訪ねても屋内も前庭も清掃が行き届き、整頓されてよい感じでした。雨の日には室の一隅に端座して三味線を弾き修練に励む姿を簾越しに見たものでした。

北畠時定公の旧跡(きたばたけときさだこうのきゅうせき)

永承6年(1051)陸奥の国の安倍貞任が朝廷に反乱を起こして、貞任の抵抗が12年も続いたことがありました(前九年の役)。その後も貞任の残党・黒鳥兵衛が反乱を繰り返したので、朝廷は北畠中納言時定公を越後に派遣したという言い伝えがあります。
また、応徳元年~2年(1084~85)安倍貞任の重臣、黒鳥兵衛が下越後に乱入し、その鎮圧に弥彦の吉川宗方(桔梗城、現・西蒲原郡弥彦村)と、羽生田周防守(はにゅうだすおうのかみ 護摩堂城、現・南蒲原郡田上町)両城主が戦ったが、戦い利あらず敗走し、朝廷は北畠時定公を派遣した、とあります。
また一説に、応徳2年8月、時定公都を出発、出雲崎着、9月野積の観音山と弥彦の猿ヶ馬場で合戦、10月麓村合戦で、時定公受傷、10日戦死してしまいました。そこでこの地に墓を建て、守本尊聖観音(まもりほんぞんしょうかんのん)を近くに安置したとあります。それが現在の観音寺だといわれます。
戦死の地には時定公の精霊を葬って、石地蔵尊を安置しました。その場所は現在、観音寺から弥彦へ向かう旧北国街道の観音寺の小字六部塚(ろくぶづか)というところにあたります。そこにかつては老松が5・6本街道を跨いで生い茂っていたそうですが、今はその松もなく、地蔵尊も台座ばかりになってしまいました。

観音寺温泉と観音さま(かんのんじおんせんとかんのんさま)

観音寺温泉の歴史は古く、人皇72代白河天皇の御代、応徳元年(1084)の発見で、享保2年(1717)すでに御領へ納税し開湯しており、旧北国街道に人馬の往来が盛んであったころは、弥彦宿唯一の湯治場として繁盛したといわれます。
なお、遊郭数個は観音寺久左衛門の支配に属し、弥彦参りの客の接待をしたものという古老の話もあります。
観音寺の縁起を要約すると、 龍岡山境の雅関風景は近傍卓絶の地なり、本尊は北畠中納言時定公護念仏で、 戦地にも常に俸給し、尊像聖徳太子18歳の作なり、一度祈念すれば一つと して感応せざることなし、即ち水火の難に遭うことなく、怨賊のために害せ られず、反って投帰せしむ、 男を求めんと欲すれば、福徳知恵の男を産し、女を求めんと欲すれば、端正 有相にして愛嬌多き女を産する、 とあります。
なお、当国23番の霊地で、大正のころまで栄えたといいます。
温泉関係には、黒鳥兵衛の乱に負傷した数多の将兵たちが、傷の治療に利用したのが観音寺温泉であるといわれています。

地名の云われに関する伝説

湯神社(石薬師大明神)と弥彦温泉発祥の由来

(ゆじんじゃ〈いしやくしだいみょうじん〉とやひこおんせんはっしょうのゆらい) 今を去ること一千年の昔
伊夜日子の里(弥彦)に権九郎(一説には雁九郎)という猟師が住んでいました。
ある年の秋の一日、朝早くから十宝山・弥彦山・国上山の峰々を駈け廻りましたが、その日に限らず、あいにくと兎一匹、山鳥一羽も獲ることができず、夕暮れ近くすっかり疲れ果てて熊ヶ谷の林中に入りました。
「何という不猟の日だ。やれやれ仕方がない。家へ戻るか。」 と、ひとり言をつぶやきながら、ぼんやり山道を歩いていると、突如、目の前の林中からバタバタと大きな羽音をたてて一羽の山鳥が飛び立ちました。
「やーれ、良き獲物ござんなれ。」 と権九郎は素早く肩の弓矢を取り直し、ヒュ-ッとばかり弦音多角一矢射放したが、残念なり。矢は山鳥の下羽近くを傷つけたのみらしく、手負いの様子のまま飛び去ってしまいました。
「えー、くやしいっ。」 と、がっかりしたものの、それでもなおあきらめきれずに、山鳥の飛び去った方向に向かってどんどん林中を進むと、突如、目の前がにわかに開けて、行く手の低地の中頃にきれいな池があるのが目に入りました。
のどの渇きを癒さんと思った彼は、生い茂る草をかき分けつつ池に近寄ったところ、こわ不思議、池の中央からコンコンときれいな湯が湧き出ていました。しかも池の中には先ほど射損じた山鳥をはじめ、たくさんの鳥獣がいっしょに仲良く湯浴みをしている様子です。
驚きのあまり声もなく、しばらくそっと眺めていた権九郎は、やがてハタと膝を打ち、心中深くうなずくや、さっそく自身もくるくると身につけた衣類を脱いで、静かにこの池の中に身を沈めました。
お湯の加減もちょうどよく、一日の疲れがみるみる取れていくのがわかりました。しかも、朝から山中を歩き廻って受けた切り傷やカスリ傷の痛みもどんどん快復していく様子に、今やすっかり狂喜した彼は、取るものも取りあえず、すぐさま里に飛んで帰り、村人にこの事実を告げて廻りました。
権九郎の話を聞いた村人たちは、さっそくわれもわれもと熊ヶ谷に押しかけ、先を争って入浴しました。話の通りのすばらしい効果に、たちまち湯の評判は広まり、しばしの間に熊ヶ谷一帯はにわかに開け、人家が立ち並び、「弥彦の霊泉」と遠近にその名声もひびいて、大層な賑わいを呈するようになりました。
かくて、村人たちは彌彦神社の神官にお願いして、池の傍らの大岩を背に神社を建立し、お湯の神・薬の神・熊ヶ谷集落の守護神として大穴牟遅命(おおなむちのみこと)・少彦名命(すくなひこなのみこと)二神をお祀り申し上げ、神社の名称も「湯神社」とお呼びして深い信仰を捧げ、弥彦霊泉はその後ますます発展しました。
しかし、時代も移って数百年の後、自然とお湯の噴出も止まり、だんだんと人家も散じて徳川時代の始めにはすっかり集落もなくなり、わずかにこの湯脈のつながりでもあるのでしょうか、山裾の観音寺集落に霊泉の名残をとどめて現代に至っています。
にもかかわらず、湯神社の信仰のみは、人家も絶え、集落が消滅しても尚変わりません。その後も神仏混交時代に一般民衆の名付けた「石薬師大明神」の呼び名のもとに、特殊信仰は代々地方民衆の間に伝わって今日に至っています。
現在の弥彦温泉の源泉は弥彦山麓の上赤坂地区にありますが、上赤坂地区と丘陵続きで彌彦神社外苑弥彦公園南西の地にある熊ヶ谷の山中に、大穴牟遅命・少彦名命を祀る彌彦神社境外末社湯神社が鎮座まします。俗に、「石薬師大明神」と一般から呼ばれて、今でも各地に信仰者があり、年間を通して賑わっています。
この石薬師にはもう一つの伝説があります。
矢立の石薬師は、珍しい形の石を二個重ねて祀り、傍らに梨の古木が一本茂っていました。結実が多く、形は普通ですが、味が悪くて食用にはなりません。歯をわずらう人が、梨を断ってこの石薬師に祈念すると、たちまち治るといわれました。

お部屋が滝(おへやがたき)

弥彦大通り住吉神社から1キロメートルほど山ふところに入ったところに「お部屋が滝」があります。三方が岩に囲まれて窟(いわや)のようになったことろへ滝がかかっています。大正のころまでは夏土用のころ、農家の人々が集まって、滝に打たれ、心身を清める風習が盛んだったといわれます。
伝説によると、文治3年(1187)源義経が奥州平泉へ落ち行く道すがら、寺泊から国上寺を経て彌彦の社前に祈願をこめ、数日滞在した折にこの滝にこもって神楽の笛を吹いたといい、都の記念に所持していた扇を彌彦神社に奉納したと称せられています。
惜しいことに、昭和39年の新潟地震の折に一方の岩が崩れて滝の姿が変わりました。今は山の神の祠(ほこら)を残すのみで、昔の面影が失われたのは残念です。

妙多羅天女と婆々杉(みょうたらてんにょとばばすぎ)

彌彦神社の北、真言宗紫雲山龍池寺宝光院(しんごんしゅうしうんざんりゅうちじほうこういん)の阿弥陀堂に安置されている妙多羅天女像にまつわる伝説です。
妙多羅天女は彌彦神社鍛匠(たんしょう)-鍛冶職の家柄-であった黒津弥三郎の祖母(一説に母)でした。黒津家は彌彦の大神の来臨に随従して、紀州熊野からこの地に移り、代々鍛匠として神社に奉仕した古い家柄でした。
白河院の御代、承暦3年(1079)彌彦神社造営の際、上棟式奉仕の日取りの前後について鍛匠と工匠(大工棟梁家)との争いとなり、結局、弥彦庄司吉川宗方の裁きで、工匠は第1日、鍛匠は第2日に奉仕すべしと決定されました。
これを知った祖母は無念やるかたなく、怨みの念が高じて悪鬼に化け、庄司吉川宗方や工匠にたたり、さらに方々を飛び歩いて悪行を重ねました。
ついには弥三郎の狩りの帰路を待ちうけ、獲物を奪おうとして右腕を切り落とされました。さらに、家へ戻って弥三郎の5歳ばかりになった長男弥次郎をさらって逃げようとしたところを弥三郎に見つけられ失敗しました。家から姿を消した祖母は、ものすごい鬼の姿となり、雲を呼び風を起こして天高く飛び去ってしまいました。
それより後は、佐渡の金北山・蒲原の古津・加賀の白山・越中の立山・信州の浅間山と諸国を自由に飛行して、悪行の限りを尽くし、「弥彦の鬼婆」と恐れられました。
それから80年の歳月を経た保元元年(1156)、当時弥彦で高僧の評判高かった典海大僧正が、ある日、山のふもとの大杉の根方に横になっている一人の老婆を見つけ、その異様な形態にただならぬ怪しさを感じて話したところ、これぞ弥三郎の祖母であることがわかりました。
驚いた典海大僧正は、老婆に説教し、本来の善心に立ち返らせるべく秘密の印璽を授けられ、「妙多羅天女」の称号をいただきました。
高僧のありがたいお説教に目覚めた老婆は、 「今からは神仏の道を護る天女となり、これより後は世の悪人を戒め、善人を守り、とりわけ幼い子らを守り育てることに力を尽くす。」 と大誓願を立て、神通力を発揮して誓願のために働きだしました。
その後は、この大杉の根元に居を定め、悪人と称された人が死ぬと、死体や衣類を奪って弥彦の大杉の枝にかけて世人のみせしめにしたといわれ、後にこの大杉を人々は「婆々杉」と呼ぶようになったといいます。
婆々杉は宝光院の裏山のふもとにあって、樹齢一千年を数えるといい、昭和27年、県の天然記念物に指定されました。
弥彦山の頂上近く、婆の仮住居の跡といわれる婆々欅(ばばけやき)、世を去った土地といわれる宮多羅(みやたら)の地名もあります。この欅は農民が雨乞い祈願に弥彦山へ登山するとき、必ず鉈目を入れたといわれている大欅です。

聖人清水(しょうにんしみず)

聖人清水は、彌彦神社門前町の旧家林部宅の裏にあります。
浄土真宗の開山親鸞聖人は承元の乱に都を追われ、承元元年(1207)、35歳の時、越後の国府(現・上越市五智)に配流の身となりました。越後国在住中に彌彦神社を参拝し、その時宿泊したのが当時の庄屋林部四郎左衛門宅でした。
一帯は昔から堅い岩盤で、水不足に悩まされていました。ある日、近くの川から水を汲み上げて運んでくる老女を哀れみ、林部宅の裏の竹林の一隅を持参の杖で突いて仏に念じたところ、たちまち水がコンコンと湧き出したと伝えられています。
人々はこの聖人の徳を喜び、以後、今日に至るまで「聖人清水」と呼ぶようになりました。
親鸞聖人が彌彦神社参拝の折に詠まれた和歌一首が次のとおり語り伝えられています。
 願はくは 都の空に 墨染の 神吹き返せ 椎の下風 親鸞聖人が林部家に滞在した際、使ったといわれる「鍋」が、いつのころからか、大字麓の分家林部名兵衛家に渡り、その後、麓の廣福寺(こうふくじ)(浄土真宗仏光寺派)に納められました。
聖人は越後国に7年間滞在しましたが、各地に伝説が残されています(親鸞聖人の越後7不思議伝説)。その後、聖人は常陸国(現・茨城県)に移られました。

伝説黒滝城跡(でんせつくろたきじょうあと)

城跡の北方に黒い大岩があり、滝がかかっていました。「黒滝」の名はこれから出たといいます。
「桜の井」一名桜清水(いちめいさくらしみず)は、近くに桜の名木があったところから名付けられたものです。黒滝左衛門尉が落城の際、この井戸に財宝を投げ込んだと伝えられ、付近で金鵄(きんし)(金色のトビ)の"とき"の声がします。井戸の中の財宝の精だといわれます。
かつて、黒滝城跡の真下、三次郎水車に人が住んでいたころ、小雨の降る暗夜には、時に数百の軍勢がワッショ、ワッショの掛け声勇ましく城山を押し上げる気配を感じたといいます。
山城に至る中腹に「大蓮寺廓(だいれんじくるわ)」とよばれるところがあり、そこにあったおおきな松の木を切ったら血が出たそうです。切ったきこりがたちまち死にました。松のたたりを恐れて代わりの松を植えました。それが現存する松だといわれています。
不思議なことに、昔は頂上付近に石ころの一片も見当たらなかったといわれます。激戦の際、籠城した武士が投石によって寄せ手を悩まし、最後の石ころまで敵に投じて戦ったからだといわれます。
「天神廓(てんじんくるわ)」には、城主金津伊豆守国吉(かなついずのかみくによし)が信仰していた天神像を祀っていました。落城の際にこの神像をもって落ちていったといいます。今も石の祠がたっています。
黒滝城の裏手にあたる「剣ヶ峰」には、時々金の鳩が飛ぶ姿を見たといわれ、これは城で討ち死にした武士の亡霊が、天に昇って金の鳩に化したのだと語り伝えられています。

猿ヶ馬場伝説(さるがばばでんせつ)

古戦場猿ヶ馬場の名称の起こりとして、次のような伝説が伝わっています。
猿ヶ馬場・・・猿ヶ峠は、大昔は「さらば峠」とよばれていたのが訛って「さるが峠」に変わったといわれます。
さらば峠の名は、彌彦大神が越後開拓のため野積浜より峠を越えて弥彦へおいでになるとき、峠の頂上で見送りの妃神と「さらば、さらば」と手を振って別れたので名付けられたといわれます。

三足還(みあしかえり)

弥彦の猿ヶ馬場で宗札が麦を背負った童子に会い、 「この辺に歌を詠む人はおるか。」 と尋ねたところ、童子はこの問いに答えて次の歌を詠みました。
 もみぢ葉の 散るやちらぬに 蒔き初めて    卯月のつきに 刈るは古年草 宗札が重ねて、 「古年草とはどんなものか。」 と問いましたら、彼の童子は三足の間に行方知れずになったので、この地を「三足還」と名付けたといいます。
一説に宗札を西行とします。

子馬の足跡岩(こうまのあしあといわ)

応徳2年(1085)弘智法印(こうちほういん)は老境に入り、入定の地を求めて駅馬に乗り、猿ヶ馬場の峠にかかった時、駅馬についてきた子馬が乳をねだってヒヒンと泣きました。母馬は、 「今お客様を乗せているのだ。寺泊の宿場へ着いたらゆっくり飲ませてやるから、しばらく辛抱するんだよ。」 とたしなめました。
これを聞いていた法印は馬の親子を哀れみ、 「子馬が乳をほしがっているから、ここにしばらく休息して、乳を飲ませてやるがよい。」 と馬子に言って、馬から下り、路ばたの石に腰を下ろして休みました。折から岩坂の方に三宝鳥(ブッポウソウのこと)の声が聞こえてきました。法印はこれを聞くや聖地を得たと大いに喜び、馬子に別れを告げて岩坂をさし登って行ったそうです。
法印の腰掛岩には子馬の足跡が数個残っていたので、「子馬の足跡岩」と名付け、今に伝わっています。場所は猿ヶ馬場、元の亀が茶屋の庭先、野積へ向かう旧北国街道の左側です。

子は清水(こはしみず)

大字麓(二区)諏訪神社の西約100メートル、猿ヶ馬場に向かって登る旧北国街道の南、雑木林の中に「子は清水」と称する泉があります。流れは諏訪神社の鳥居のそばを過ぎ、参拝者の清めの水となり、また、用水となって福王寺地区の田畑を潤しています。
昔、麓に孝子がいました。病父は酒が好きでしたが、貧乏で買えませんでした。ある日、山仕事の帰りに雑木林を通ると、こうばしい酒の香が漂っていました。孝子がこれを汲んで父に勧めたところ、妙味に感じ入ってその芳香を賞しました。後に孝子がこれを飲んでみたが、常の水と変わりなかったそうです。村の人々は孝徳のもたらした恩恵であろうと称賛し、以来、この清水を「親はもろはく子は清水」と言い伝えています。
泉の信仰に基づく同様の伝説は、長岡市栖吉町など全国各地にあり、地名にも残っています。

矢作村の由来(やはぎむらのゆらい)

矢作は、その地名のごとく、矢作りを生業とした人々が住んだところから、この地名がつけられたといいます。
「黒鳥兵衛の乱」で勝利を得た加茂次郎義綱(八幡太郎義家の弟)は、この功により勅勘を許されましたが、その後永長元年(1096)都へ帰るまでの間、この地に住んで矢を作ったという言い伝えがあります。
今でも井田丘陵のふもと中山地区の北方にある谷間がその跡地だと伝わり、地名も小屋場と呼び、昔は耕作等の折に、しばしば鍋などが見つかったといわれます。

矢作の二本松(やはぎのにほんまつ)

大字矢作字釈迦堂山(しゃかどうやま)にあり、昔から俗に、「矢作の二本松」とか、「弁慶腰掛の松」と呼ばれています。その名のごとく、文治3年(1187)源義経・弁慶主従一行が都を逃れて平泉へ落ちていく途中、しばしこの松に腰を下ろして休息したという伝説があり、釈迦堂という立派なお寺があったといわれる旧跡です。
胴回り約6メートル、樹高約10メートル、樹齢およそ700年といわれ、四方に張った枝葉も威勢がいい老松です。
昭和34年「二松保存会(にしょうほぞんかい)」を組織し、積極的に環境整備と保存の活動に入り、昭和43年8月、「二松之碑」と「二松の由来碑」が建てられました。
二本松の碑   延尉曾遭檣内訟 逃奔千里寄潜縦   口聘不滅今尚語 七百年前矢作松

三足富士(みあしふじ)

越後の霊峰弥彦山は、北から見れば肩を怒らせたように見え、南側から見れば三角に、東側から見れば四つの峰が段々になって見えます。
猿ヶ馬場の頂上へ登って、藤が茶屋の前、宝筐印陀羅尼塔(ほうきょういんだらにとう)の西側に立って弥彦山を見ると、御廟所の峯が左に離れ、ほかの三つの峰が具合よく重なって、峯から尾根に至るまで富士山と変わらない形になって見え、まさに、村から見る以上に雄大で、極めて壮観です。
しかし、茶屋の前から西に向かって少し歩くと、すぐ形が崩れてしまい、富士山そっくりに見える位置がわずかの間なので、昔の人が「三足富士」と名付けたといわれています。
この三足富士の名は、古い時代の文書の中の麓12景に、近代になって麓の奥右衛門老人の選定された麓8景の中にも数えられています。

西行もどしの岩(さいぎょうもどしのいわ)

昔、西行法師が行脚の途次、国上寺へ参詣しようとお山の道をたどりました。道の側の大きな岩のところまで来ると、山火事にあったためか、土が黒く焦げ、柔らかい蕨(わらび)がたくさん萌えだしていました。4・5人の村の子どもたちが楽しそうに蕨を摘んでいました。法師はその様子を見て、 「これ、子どもたち、焼け山の蕨を摘んで、手を焼かぬようにするがよいぞ。」 と言いました。すると、一人の子どもが西行法師の顔を見て、 「お坊さん、お前さんも檜笠をかむって頭を焼かぬように気をつけなさいよ。」 と返事をしました。法師は驚いて、 「おやおや、これは一本まいった!このお山には子どもでさえこんな偉い知恵がある。きっとお寺にはよほど偉い人がおられるに違いない。自分はまだ修行が足りない。参るのはやめにしよう。」 と後戻りされました。
後に、村人はこの大岩を「西行もどしの岩」と名付けました。
西行法師が北越地方を行脚されたのは文治3年(1187)、奥州平泉から京都へ帰る途中であろうといわれ、もしくは別に北陸地方を行脚されたのだとも考えられています。歌が伝わっているので、行脚されたものと考えられます。
  あらち山さかしくだる谷もなく     かじきの道をつくる白雪   たゆみつつ橇の早緒もつけなくに     つもりにけりな越の白雪

辰が塘(たつがつつみ)

麓の下組(二区)に昔、辰という名の少年がいました。夏の暑い盛りに辰が居眠りしていますと、 「辰!水あびに行こうよ。」 と、友達の呼ぶ声が聞こえました。辰は、 「ああ、行くよ。」 と答えて友達といっしょに出かけました。
そのまま日が暮れても辰が帰ってこないので、大騒ぎになりました。大勢の辰の友達に尋ねても、辰を水あびに誘った少年は一人もいませんでした。
近隣の人々が辰の行方を捜して福応寺(ふくおうじ)の塘を訪ねたところ、辰は水死体となって浮かんでいました。辰を呼びに来たのは友達ではなく、塘に住んでいた古河童であろう、辰は河童に捉えられてしまったのであろうということになり、以来、この塘を「辰が塘」と呼ぶようになりました。
「辰が塘」の伝説は、その上流の諏訪神社裏雑木山の「子は清水」の伝説と同様に、何時代の出来事か、年代も住所・屋号・氏名も伝わっていません。

雨乞山(あまごやま)

雨乞山は弥彦山御廟所の南側に沿った円形の山で、昔麓の村人たちが、長い日照りで井戸水が枯れ果てたときに、山に祈願して雨を降らせてもらったので、雨乞山と呼ばれたと伝えられています。
山の中腹には井戸があって、この井戸はどんな炎天続きの時でも水が得られたので、村の人々は山まで水を汲みに行って、かろうじて渇きをしのいだと伝えられています。
後の猿ヶ馬場峠の亀が茶屋の井戸がそれで、明治30年代野積の浜人が干ばつの夏に雨乞いを行ったと云われています。

馬おとし(うまおとし)

往古、北畠時定卿の精霊を葬ったと伝えられている六部塚のあたりを馬に乗って通ると、必ず馬が何かに驚いて立ちあがり、馬上の人はコロコロと転げ落ちることが毎度のことで、村の人たちはここを、「馬おとし」といって怖れていました。
地蔵尊を供養してから後は、馬の驚くこともなく、馬から落ちる人もなくなったと伝えられます。

弥彦の民話

御神木(椎の木)(ごしんぼく〈しいのき〉)

彌彦神社参道の手水舎(ちょうずしゃ)と広場を隔てた右上段、石柵を巡らして、御神木椎の木が茂っています。
祭神が持っておられた杖を地に挿したら、たちまち根付いて枝葉を茂らし、天下に異変のあるときは奇瑞を現す、と伝えられています。
元の本殿はこのかたわらに鎮座していましたが、明治45年3月11日の火災で、神殿も御神木も共に焼けてしまいました。
その後、神殿は現在地に再建されましたが、御神木は、不思議にも焼け残った幹からまた新しい芽が伸びはじめ、再びこんもりと繁茂するに至りました。
この奇異な現象を目の当たりにした人々は、いよいよこの霊木を通じて信仰を深めました。
   良寛の歌  いやひこの 神のみ前の 椎の木は 幾代へぬらむ 神代より かくし有るらし  ほづ枝には 照る日をかくし 中の枝は 雲をさえぎり しずえはも いらかにかかり  ひさかたの 霜はおけども しなとべゆ 風は吹けども とこしへに 神のみ代より  かくてこそ 有りにけらしも 伊夜日子の 神のみ前に 立てる椎の木

泣き仏(なきぼとけ))

越後に配流されていた親鸞聖人は、彌彦大明神に参拝して、しばらく社家の高橋舎人(たかはしとねり)方に滞在しました。その記念にといって残された一体の仏像は丁重に祀られていましたが、その後、古くから親しくしていた石瀬の種月寺に懇望されて、同寺の仏殿に安置されることになりました。ところが仏殿から、 「舎人ヘ帰りたい、舎人ヘ帰りたい。」 という泣き声がしたので寺僧が行ってみると、仏様は顔をゆがめて泣きじゃくっており、いろいろ手を尽くしてみましたが、泣き止みません。
仕方なく再び高橋家へ戻すと仏様は泣くのをやめて、元の慈しみ深い顔になられました。人々は「泣き仏」の不思議を語り伝え、高橋家の秘仏になったといいます。
今、泣き仏は彌彦神社でお預かりしています。

利兵衛さんの狐(りへえさんのきつね)

150年ほど前のこと、境江の利兵衛さんの屋敷の裏に森があって、そこに夫婦の狐が住んでいました。八百松という息子がその狐と親しくしていて、暇があると森の狐と遊びたわむれて、かわいがっていました。八百松が病気で幾日も寝ているとき、看病していた母とこんな話をしました。
「自分が病気で幾日もこんなに苦しんでいるのに、裏の狐は何もしてくれない。」 「いくら仲良しでも相手は畜生だもの。」 翌朝、勝手の流しに大きな鯉が2匹置かれていました。二人の話を聞いたのか、感じたのか、とにかく狐の届けてくれた見舞とわかって八百松は喜んで食べ、まもなく元気になりました。
あるとき、母狐が幼い何匹かの子狐を残して死にました。利兵衛さんの家では気の毒に思って、みんなが何かと目をかけてやりました。やがて、村の人々の間で、狐の嫁入りがあったという評判がたちました。八百松は狐の穴の前へ行って、狐を呼びました。雄狐が穴から出てくると、左手で片目を押さえて八百松の前にうずくまりました。そのあとから出てきた雌狐をよくみると片目が不自由でした。八百松が、 「片目が見えなくても、子どもをかわいがってくれれば、立派な嫁だ。」 といったら、2匹して尾を振りました。
八百松が成人して嫁をもらうときは、鴨2羽をお祝いに届けたそうです。今から100年以上も前に森が伐られたころから、その狐の姿は見られなくなりましたが、穴はその後も残っていたといいます。

麓の狐(ふもとのきつね)

昔、麓に庄吉という猟師がいました。ある日、狐を捕らえようと思って、ときどき狐の出てくる林の中に罠をしかけました。狐はネズミの天ぷらが大好きだと聞いていたので、天ぷらを罠のえさに付けました。そして庄吉は友達の家に遊びに行き、夜遅くまでカルタ遊びをしていました。すると夜中に、家の戸口の外から庄吉の名を呼ぶ聞こえました。
「庄吉、庄吉!罠のえさにネズミの天ぷらを用いてはよくないぜ。二度と用いてはくれるなよ。」 だれの声だろう。庄吉にはわかりませんでしたが、カルタに熱中していたので、そのまま聞き流しました。翌朝、林へ行ってみると大きな古狐が罠にかかって死んでいました。庄吉は昨夜の呼び声を思い出しました。
-俺にネズミの天ぷらを用いるなと呼びかけたのは、きっとその古狐に違いない。好物の天ぷらは食べたい。しかし、食べれば罠にかかって死なねばならぬ。わかっているが、匂いを嗅いだ以上は、ぜひ食べたい。それで古狐は俺の遊んでいた友達の家まで来て、俺に言葉をかけ、そして天ぷらを食べて罠にかかったのであろう。- と、庄吉は古狐が気の毒になりました。
-自分などは、おいしい物が食べたいと思えば努力次第で存分に食べることができるのであるが、狐や狸にはそれができないのだ。人間の身をもって生まれたのは幸せであった- と思ったということです。

魵穴の狐(えびあなのきつね)

-今日は魵穴(弥彦村の地名)の狐を聞かせようかな。
「あい!」 -大工さんがね、夕方、仕事を終えて魵穴まで来ると、泉(弥彦村の地名)の灯が見えるんだ。
「ふぅーん。」 -急いで自転車を踏んで、どんどん行くと、いつのまにか同じ場所に来るんだと。
「ふぅーん。」 -一生懸命に走っても同じところに来るんで、魵穴の家で、泉はどっちだろう、と聞くとね。
「うん!」 -あの灯りの見えるところだ、と教えてくれたんでね、喜んで一面草原の田んぼの中を急いで走っていったって。
「ふぅーん。」 -どうも走らないので、自転車を見ると、輪が草で空回りしているんだって。
「ふぅーん。」 -いくら走っても、泉の灯りが見えるのに着かないんだな。大工さんもすっかり疲れて、タバコを一服つけたとたんに狐が離れたと。狐に化かされたんだね。自転車は動かんし、しかたないんで自転車を引いて、10時過ぎにやっと家へ帰ったって。

矢作山の五兵衛狐(やはぎやまのごへえきつね)

矢作山の五兵衛狐は人をだますことが大好きですが、お人よしの方でもあったということです。いつも馬のフンを「おはぎ」にしたり、木の葉をお金にしたりして、人のごちそうを取り替えては喜んでいました。
あるとき、おじいさんがよそへよばれていき、ごちそうをわらっとこにして手に下げて家に帰る途中のことです。五兵衛狐は何とかしてそのごちそうを取りたいと思い、娘に化けて後になったり、先になったりしていました。その仕種からおじいさんは悟って、 「ははぁー、俺を化かして物を取るつもりだな。」 と思い、 「おいおい娘!おまえは俺のごちそうがほしいのだな。俺はそんな良い娘をおんぶしたことがない。俺におぶさればこのごちそうは全部おまえにあげるから、俺におぶされや!」 と言いました。娘(狐)は、おぶさればごちそうがもらえるものと思ったのでおぶされましたが、いつまでもいつまでもおろしてごちそうをくれない。そのうちに家の近くになるので、 「早くおろしてうまいものくれや!」 といってもおろしもせず、どんどんと家に近づきました。狐はがまんできなくなって、狐の大切な宝の"へ"を一発放したけれども、おじいさんはそれくらいではへこたれず、とうとう家の中へ連れて入ってしまいました。
さて、狐もどうしようもなく、家の片隅でぶるぶるとふるえていました。おじいさんは、 「おい、五兵衛狐や!おまえは人を化かしたり、物を取ったり、悪いことばかりしてきたやつだが、これからこんな悪いことをしなければゆるして解き放してやるがどうだ!」 と狐に問いました。狐は涙をこぼして、 「これからは改心し、決して悪いことはしない。」 とあやまりました。おじいさんは気の毒に思い、放してやりました。それからというもの、悪いことをしない良い狐になったということです。

松尾芭蕉の宿(まつおばしょうのやど)

「おとうちゃん!芭蕉という俳句の神様が弥彦に泊ったんだってねえ。」 -そうだよ。だけどね、どこへ泊ったか、はっきりわからないんだ。
「宝光院様に泊まったんだって?」 -誰から聞いた? 「今日ね、先生が教えてくれたよ。」 -そうか、そうか。
ところで、芭蕉は伊賀上野(現・三重県)の出生で、29歳の春、江戸へ出て俳諧師として名を売り、元禄2年3月27日江戸の千住を出発、「奥の細道」の旅路につきました。奥羽・北陸巡遊、門人曽良(そら)を伴い彌彦神社に参拝しています。
曽良の「随行日記」によれば、元禄2年7月2日新潟に到着し、大工源七の家に泊り翌3日、歩いて弥彦に午後5時ころ着き、宿を取って彌彦神社に参拝し、翌日午前8時ころ猿ヶ馬場を越えていることになります。
なお、新潟の宿は大工源七とありますが、よくわかっていません。出雲崎、その他県内の宿も、今ではほとんどわかりません。紹介状を持って行ったのに、忙しいから、と宿を断られたりしています。歓待された宿では、10日・20日も泊って句会を催して指導をしていました。
  荒海や 佐渡に横たふ 天乃河 の句碑を宝光院で建立し、毎年7月3日に「奥の細道を訪ねて」の行事が行われます。

和尚と小僧(おしょうとこぞう)

あるところに和尚と小僧がいました。和尚は人一倍欲張り屋でした。小僧は人一倍働き者で、洗濯やふきそうじもまめまめしくしました。
ある時、小僧は寺の用事で出かけましたが、途中、にわか雨が降ってきたので早く用事を済ませ、寺に帰りました。和尚は、小僧が早く帰ってくるとは思わなかったので、「小僧のいない留守に、うまいものがないか」と思い、あたりをうろうろ探していたところ、うまそうな御供餅があったので、「これでも食べようか」と"よろぶち"の灰汁の中へ二つ三つくべて、今、食べようと思っていました。その矢先、 「和尚様、ただ今帰りました。」 という大きな小僧の声がし、和尚もなすすべなく驚いて、灰汁をかけ、知らん顔をしていました。小僧は、 「和尚様、和尚様。今、隣の村に建前がありましてね。この"よろぶち"を土台とすると四方に柱が立って、ここにも柱が立っています。」 と火箸を"ブスリ"御供餅の上にさし、火箸とともに御供餅があがってきました。和尚が「シマッタ」と思っているところへ、小僧は、 「和尚様、和尚様。これは何でしょう。」 というと、和尚様は、 「それはおまえにさずかったものだから、食べなさい。」 といいました。
小僧は喜びながら、ここにも、ここにも…と、一本、また一本と刺したので、和尚は結局何も食べられず、小僧は"とんち"のおかげで、みんなごちそうになったということです。

カマイタチのこと

以前は、「鎌鼬(かまいたち)」にかかった、という話をよく耳にしました。何かにつまずいたり転んだりしたはずみに、手か足の一部が急にパックリ裂けて、骨まで見えるほど大きな口をあけることがあるが、出血もなく、痛みもさほどでないそうです。昔からこの現象を「鎌鼬」といって恐れ、目に見えない鼬のような妖怪の仕業だと思っていたらしく、越後七不思議の一つに数えられており、信越地方に多いといわれます。木の葉を吹き上げる風の渦の中心に、鎌をもった恐ろしいイタチがいる「鎌鼬」の古絵図もあります。また、『北越奇談』には、 「弥彦山から国上山へ越す所に黒坂という所があって、そこで転んだ者は必ずこの不思議な目にあう。」 と書かれています。この黒坂が一体どこをさすのでしょうか、今ではよくわかりません。
俳句歳時記にも「12月」の季語になっているので、冬によくみられたことなのでしょうか。今ではほとんど聞かれなくなってしまいました。

村史こぼれ話

弥彦村における歴史を語るコーナーです。ごゆっくりご覧ください。

第 1話 出羽三山塔(PDFファイル)

第 2話 オウレン(植物)(PDFファイル)

第 3話 明訓校最後の校長(PDFファイル)

第 4話 弥彦線開通と西川橋梁(PDFファイル)

第 5話 道路元標(PDFファイル)

第 6話 唱歌「弥彦山」(PDFファイル)

第 7話 泉流杜氏(PDFファイル)

第 8話 半檀那(半檀家)(PDFファイル)

第 9話 風呂たて番(湯たて番)(PDFファイル)

第10話 村行造林(PDFファイル)

第11話 石油業界の神社信仰(PDFファイル)

第12話 三条大地震(PDFファイル)

第13話 矢作のくらし(PDFファイル)

第14話 村を襲った自然災害(PDFファイル)

第15話 凧揚げ(PDFファイル)

第16話 カマイタチと黒板(PDFファイル)

第17話 新潟明訓校の学校林(PDFファイル)

第18話 義経伝説(PDFファイル)

第19話 長善館と弥彦村(PDFファイル)

第20話 白土生産工場(PDFファイル)

第21話 江戸時代の弥彦の道(PDFファイル)

第22話 観音寺久左衛門(前編)(PDFファイル)

第23話 観音寺久左衛門(後編)(PDFファイル)

第24話 弥彦神社相撲節会(PDFファイル)

第25話 田植え休み・稲刈り休み(PDFファイル)

第26話 アメリカ人形のこと(PDFファイル)

第27話 アメリカ人形の思い出(PDFファイル)

第28話 渡辺寛三郎著「黒滝城(PDFファイル)」

第29話 繭玉飾り(まゆだまかざり)(PDFファイル)

第30話 弥彦と相馬御風(PDFファイル)

第31話 円鍔勝三のブロンズ(PDFファイル)

第32話 旧麓小学校の校門(PDFファイル)

第33話 竹塗りの絵馬(PDFファイル)