いざ出陣!弥彦で知る上杉謙信 義の心

いざ出陣!弥彦で知る上杉謙信 義の心

弥彦で知る天地人

上杉謙信 基礎知識講座

上杉謙信が愚直なまでに重んじた「義」

上杉謙信や上杉景勝らが愚直なまでに重んじた「義」

 享禄3年(1530)〜天正6年(1578)。戦国期の越後国の武将。長尾為景(ためかげ)の子。
 はじめ長尾景虎(かげとら)、ついで上杉政虎(まさとら)、上杉輝虎(てるとら)、入道して上杉謙信と名乗りました。

 天文17年(1548)に家督(かとく)を継ぎ、天文19年(1550)、越後守護上杉実定(さねさだ)の死により、名実ともに越後国主となりました。信州川中島で武田勢と数度にわたって戦ったほか、関東管領上杉憲政(のりまさ)を保護して以降、関東への出兵(越山)を繰り返し、北陸方面では越中を制圧し、加賀・能登にも侵攻して織田信長軍と戦うなど、合戦に明け暮れた生涯でした。

 神仏に対する信仰心の篤い人物であったとされ、永禄7年(1564)6月24日に上杉輝虎(謙信)がおさめた願文が今も彌彦神社に残されています。その利によって動く戦乱の世にありながら「義」を尊び重んずる精神は、上杉景勝や直江兼続をはじめ、多くの上杉家の家臣たちに引き継がれていきました。

上杉景勝 基礎知識講座

 弘治元年(1555)〜元和9年(1623)。魚沼郡の上田長尾氏の長尾政景(まさかげ)と謙信の姉仙桃(せんとう)院との間に生まれ、のちに謙信の養子となります。
 謙信死後、もう一人の養子・上杉景虎(北条氏康の7男)と跡目をめぐって争い、勝利しました(御館の乱)。御館(おたて)の乱で景勝方の黒滝城将山岸氏は、景虎方の三条城の攻略に重要な役割を果たしました。天正8年(1580)6月、三条城は開城するが、この前後、景勝自身も二度にわたって中郡に出陣しています。

 天正9年(1581)に入ると、新発田城の新発田重家(しげいえ)が景勝に対抗しはじめますが、天正10年(1582)5月には、景勝の越中出陣の隙をついて、新発田勢が弥彦および周辺の川辺に放火しています。新発田氏との抗争でも、黒滝城将山岸氏は景勝方として働き、景勝の権力を後ろ盾としながら彌彦神社および神領に対する影響力を強めました。

 景勝は天正14年(1586)、聚楽第で豊臣秀吉に対して臣従の礼をとり、天正15年(1587)には、新発田重家を破って越後を平定しました。天正17年(1589)には、佐渡へ進攻してこれを手中におさめ、天正18年(1590)には、秀吉から庄内三郡の支配を命じられました。しかし、慶長3年(1598)、秀吉の命により会津に移され、家臣団とともに越後を去ることになります。

直江兼続 基礎知識講座

 永禄3年(1560)〜元和5年(1619)。上杉景勝の側近。魚沼郡上田荘(南魚沼市)の生まれ。長尾政景の家臣・樋口兼豊(かねとよ)の子。幼名与六(よろく)。元服して兼続。のちに重光と改めます。
 天正9年(1581)、与板城主直江信綱(のぶつな)が殺害された直後、直江家を継承し、のちに山城守を称します。景勝政権下において、財政・外交・軍事の広範な権限を掌握し、その実務は、兼続の家臣・与板衆が担いました。

  御館の乱で景勝方として活躍した黒滝城の山岸氏も、兼続としばしば接触があったものと推測されます。景勝が新発田重家と戦っていた天正13年(1585)4月、兼続が与板衆・本村氏に対し、景勝の出陣が近いことを天神山城(新潟市西蒲区)と黒滝城に伝えるよう命令した文書が残されています。このころ天神山城の小国氏は、すでに兼続の実弟・実頼が継承しており、黒滝城の山岸氏は、兼続と同郷の上田衆、深沢刑部(ぎょうぶ)の子である深沢弥七郎(のちの山岸尚家(なおいえ))が継承する前後の時期にあたります。

 慶長3年(1598)、景勝の会津移封にともない、兼続は米沢城代となります。関が原の敗戦により、上杉家が米沢30万石に封ぜられたのちも、米沢藩政の中心にあって、その基礎づくりに活躍しました。漢詩文に親しんだ文人、あるいは無類の蔵書家としても知られています。兼続の蔵書の中には、『宋版史記』『宋版漢書』『宋版後漢書』など国宝に指定されているものがあります。

深沢弥七郎 基礎知識講座 (後に山岸尚家と改名)

 上杉景勝家臣の上田衆。後に山岸尚家(やまぎしなおいえ)と改名し、黒滝城を守ります。
 景勝の支持基盤である上田衆の深沢刑部少輔の子で、幼名は弥七郎。山岸氏の養子となり、元服後は山岸中務少輔尚家(やまぎしなかつかさのしょうなおいえ)を名乗り、黒滝城将となります。
 
 上田庄の雲洞庵(うんとうあん)で、主君である上杉景勝や直江兼続らとともに、北高全祝(ほっこうぜんしゅく)の教えを受けます。景勝家臣団を記録した文禄3年(1594)の定納員数目録には、越後侍中143名のうち、26位の知行高2277石で登場しており、景勝が初陣を飾った越中攻めや御館の乱では目覚ましい働きを見せ、活躍しました。

 慶長3年(1598)1月、上杉景勝の会津移封に従い、新たに5500石の知行が与えられました。

▲ページの先頭へ