いざ出陣!弥彦で知る上杉謙信 義の心

いざ出陣!弥彦で知る上杉謙信 義の心

黒滝の地と上杉謙信

御館の乱では戦略上の要衝に −黒滝城−

黒滝要害(外観)

黒滝要害(外観) ※詳細

 弥彦村麓の西約1キロ、城川(じょうがわ)の谷奥に一際高くそそり立つ(標高246m)黒滝城は、中世の動乱期に「黒滝要害」と呼ばれ、北陸道の軍略上の要衝として重要な役割を果たし、越後守護上杉氏の要塞でした。さらに、上杉謙信後継者争いの「御館の乱」では要衝地として重要な役割を果たし、上杉景勝の勝利に大きく貢献しました。

 黒滝城の規模はきわめて大きく、山上には要害、麓集落には城主や家臣、これにともなう家族や従者の舘・根小屋を構え、近くに剣ヶ峰(標高292m)の出城を築き、要害と指呼の間で呼ばれています。展望は絶好で、寺泊・野積・猿ヶ馬場など交通上の要衝と渡部城・夏戸城など軍事戦略上の要衝をすべてけん制できる位置にあり、天嶮に構えた一大山城でした。 

 天神郭下段には櫻井戸と呼ばれる大井戸の跡があり、この井戸は豊富な清水が湧き出て、山城に欠かせない水の便でした。城岩北側に黒い岩壁から流れ落ちるのが黒滝で、城名もこの滝に因んだものと伝えられています。

 なお、慶長3年(1598年)、上杉景勝の会津移封により黒滝城は廃城となりました。

 昭和50年11月には弥彦村文化財として指定され、現在は黒滝城址森林公園として整備されています。林道が山の上まで通じているため、容易に散策することができます。また、早春には雪割草・カタクリが咲き乱れる観光スポットでもあります。

上杉謙信の黒滝城をめぐる攻防

黒滝城址

黒滝城址

 戦国時代に入ると越後守護の上杉氏と守護代長尾氏との対立が激化、長森原の戦いで、長尾為景(上杉謙信の父)が関東管領上杉顕定(あきさだ)を自刃に追い込み、事実上、越後は守護代の長尾氏の支配下に置かれることとなります。

 天文5年(1536年)、為景は長男晴景に家督(かとく)を譲った後、まもなく没していまいます。為景の死後は、これを待っていたかのように国人領主たちの叛乱が相次ぎ、晴景はこれを抑えきれず、春日山城下の林泉寺にいた当時14歳の弟の長尾景虎(後の上杉謙信)を栃尾城に配置しました。

  当時の黒滝城主 黒田秀忠は三条城主 長尾俊景らとともに守護代長尾晴景に謀叛を起こします。晴景は当時栃尾城に配されていた弟の景虎に命じ、処分しようとしましたが、守護上杉定実(さだざね)の取りなしにより、秀忠は丸坊主になって他国に逃れるという条件で、命を赦(ゆる)されました。

 しかし、その後、秀忠は密かに領内に戻り、黒滝城に一族を集め、抗戦の構えをとったので、天文15年(1546年)、景虎は激怒し上杉定実の同意を得て討伐、黒田一族はことごとく自刃して滅びました。時に景虎はわずか16歳でした。

 この戦を通じて、処分を断行した景虎の声望は高まり、勢力は確立されました。景虎自身、後年に「長尾家を再興することができました」と述懐するほどの大事な転機の戦いとなりました。

黒滝城と上杉家

若き上杉謙信や上杉景勝も眺めたであろう越後平野を一望(大連寺曲輪)

若き上杉謙信や上杉景勝も眺めたであろう
越後平野を一望(大連寺曲輪)

 黒田一族討伐後の黒滝城主は上杉家の家臣山岸出雲守光祐(みつすけ)で、以後、光祐の二人の子、兄の山岸秀能(ひでよし)、弟の村山慶綱(よしつな)らが城主となり、弥彦の桔梗城も支配下におきました。また、山岸秀能は、彌彦神社戸内職(とないしょく)も兼ねており、彌彦神社に強い勢力をもっていました。

 上杉謙信には実子がなく、天正6年(1578年)に急死すると、二人の養子・喜平次景勝(上杉謙信の甥)と三郎景虎(小田原 北条氏康の七男)が家督をめぐって対立した御館(おたて)の乱が勃発します。

 御館の乱は、初めは景勝と景虎との権力争いでありましたが、後に景勝の反対勢力の制圧へとその性格を変えていきます。

 景勝は謙信の死後3年にしてようやく敵対勢力を制圧し、中郡(上越地方一部・中越地方・下越地方一部)まで統一することが出来ました。この際、黒滝城主山岸氏は、父子で景勝方に味方し軍功をあげ、その後の越後統一(阿賀北衆(あがきたしゅう)鎮圧)にも大きく貢献しました。

 御館の乱後、景勝政権の中枢は直江兼続を筆頭に、上田衆で固めていきます。

 天正10年(1582年)に、織田信長軍の北征によって窮地に立たされますが、本能寺の変により信長が自害したため、上杉家は九死に一生を得ます。その後は、豊臣秀吉に臣従するかたちで、景勝は豊臣政権の五大老の一人となります。

 慶長3年(1598年)に、秀吉の命により上杉景勝は突然、東北諸大名の監視と牽制のため会津120万石へ国替えとなります。この会津移封により山岸氏一族もこれに従い、黒滝城は廃城となりました。

御館の乱と黒滝城  

春には見事な梨の花が咲きます(弐ノ曲輪)

春には見事な梨の花が咲きます(弐ノ曲輪)

 天正6年(1578年)に、上杉謙信は春日山城で死去した後、謙信には実子がなく、二人の養子景勝(上杉謙信の甥)と景虎(小田原北条氏康の七男)が後継者の座をめぐって争いました(御館の乱)。謙信の諸将はそれぞれの思惑から、ある者は景勝に、ある者は景虎に味方しました。

黒滝城の山岸光祐、天神山城の小国氏らは景勝に、三条城主神余親綱(かなまりちかつな)、栃尾城の本庄秀綱(ほんじょうひでつな)は景虎に味方し、神余親綱は再三にわたって黒滝城を攻撃しました。黒滝城将らは景勝に援軍を求めましたが、景勝は本庄秀綱が上田(現在の南魚沼市)を攻撃しているので、しばらくはその求めに応じられないと答えています。

 御館の乱当初は景虎方の優位に展開していましたが、直江兼続を筆頭に景勝の直臣団である上田衆の働きにより景勝方が劣勢を挽回。

 ついに、景虎は御館を脱出して関東を目指しましたが、景勝の厳しい追撃と激しい攻撃により自害し、御館の乱は景勝の勝利となりました。

上杉景勝 中郡の制圧

 

きれいなヤマザクラが咲きます(弐ノ曲輪)

 御館の乱は、初めは景勝と景虎との権力争いでしたが、後に景勝の反対勢力の制圧へとその性格を変えていきます。

 天正7年(1579年)秋から暮れにかけて、三条城主神余親綱の軍が黒滝城を再三攻撃してきました。神余軍の攻撃は激しく、景勝に援軍を要請しましたが景勝にその余裕はなく、天正8年(1580年)1月になって、ようやく景勝は楠川将綱(くすかわまさつな)を派遣し、神余軍を撃退します。景勝は黒滝城の山岸父子の忠節を「景勝若輩と雖(いえど)も忘却しない」と誓っています。

 天正8年(1580年)4月に景勝は兵を率いて府中を出立、栃尾城を落城させます。その後、景勝は黒滝城、天神山城を視察して春日山城の帰途につきます。

 同年6月、景勝は安倍仁介・山岸秀能を天神山城将小国石見守の加勢に派遣、和納城を攻撃し、さらに三条城の神余親綱を攻撃しました。強い抵抗にあいましたが、山岸父子の降伏勧告、城内の内応もあって三条城は落城しました。景勝は山岸父子の労を謝しています。

 景勝は謙信の死後3年にしてようやく敵対勢力を制圧し、中郡(上越地方一部・中越地方・下越地方一部)まで統一することが出来ます。これには黒滝城将山岸父子の働きが大きく貢献していました。

新発田重家の乱と弥彦村

 天正9年(1581年)になると、御館の乱の恩賞の不満により、新発田城主新発田重家が織田信長と結んで反旗をひるがえし、上杉景勝と対立します。

 しかし、景勝の直面する敵は重家よりはむしろ国境に殺到する織田信長の軍勢であったため、景勝は懸命に越中の魚津城など国境を守備します。一方、山岸父子に対し景勝は重家対策を命じ、二面作戦をとりましたが、天正10年6月の本能寺の変で、信長が明智光秀に殺されたため、信長軍の脅威はなくなり、状況は一変します。

 同10年8月に景勝は新発田近郊五十公野(いじみの)に着陣し、新発田攻めを行います。しかし、攻め切れずに兵を引き上げました。このころ新発田勢が弥彦に放火し、弥彦は焼け野原になったと伝えられています。

 そして、天正14年(1586年)、景勝は大阪の聚楽第(じゅらくてい)で豊臣秀吉に対して臣従の礼をとり、天正15年(1587年)に、新発田重家を破って越後を平定しました。

黒滝城は上田衆 深沢弥七郎(後に山岸尚家と改名)が城将に

  御館の乱後、景勝政権の中枢は直江兼続を筆頭に上田衆で固められます。

 黒滝城を守っていた城将山岸右衛門が朝鮮出兵中に没した際、右衛門の子忠兵衛がまだ幼少であったため、右衛門亡き後、上田衆の深沢刑部の子で上杉景勝や直江兼続と幼少期から行動を共にし、景勝政権を支えてきた深沢弥七郎(後に山岸尚家と改名)が山岸家の家督を継ぎ、黒滝城を守ります。

 そして、慶長3年(1598年)に、上杉景勝が会津へ国替えとなったため、黒滝城は廃城となりました。

 

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