明治天皇は明治維新後の明治5年から明治18年までの間に6回にわたって、日本国内を巡幸されました。民情を視察し、新政府の適否をさぐり、あわせて天皇統治権の浸透を図るためといわれています。
 明治11年(1878年)8月30日に東京を出発、長野県から新潟県へ入られたのは9月10日で、9月26日まで県内に滞在され、弥彦には9月15日においでになりました。


▼麓村で小憩

 明治11年9月15日朝、明治天皇は寺泊から弥彦に向かわれる途中2度の御小憩と御昼食をとり、午後2時10分に当時の麓村の戸長(村長)を勤めていた本間市太郎が御用に供するため屋敷内に自費で新築した建物で、休息をとられました。
 建物は東方に向かい、樹間からは広い平野が見渡せます。

弥彦の地で宿泊

 明治天皇は弥彦神社一の鳥居向かいにある当時の弥彦神社祠官 五十嵐盛厚の奥庭に新築された御宿に、9月15日午後3時50分頃到着し、御宿泊。
 翌早朝、弥彦神社にご親拝後、一の鳥居前から馬車に召されて新潟に向かわれました。なお、岩室の高島屋で御小憩されましたが、先頭が到着しても後尾はまだ、弥彦を出発していないほど長い行列でした。
 御宿は明治45年の弥彦大火で焼失しましたが、現在は庭園が築かれ、跡碑が建てられています。

▼岩倉具視右大臣が
    宿泊した由緒ある邸宅が現存


 明治天皇が御巡幸で弥彦の地を訪れた際、供奉員として随行した明治政府の高官 岩倉具視右大臣は、現在の宮司官舎付近にある弥彦神社の祠官 鈴木嘉内宅(当時)に宿泊されました。また、右大臣の他に随行してきた従者5名、小者5名、車夫1名、馬丁1名、警視第一部署13名も宿泊しています。
 なお、同宅は社家様式の質実剛健な屋敷で、明治45年の弥彦大火で類焼をまぬがれ、弥彦下町の地に移築された後も現存し、堂々たる風格を漂わせています。
▼宿割りに苦心

 (旧)弥彦村は越後一宮の鎮座地で、早くから門前町の形をした小さな宿場だったので、宿屋も6、7軒ありました。また、社家のうちでも参拝者の宿をしていた家もありましたが、なにしろ(旧)弥彦村全村で80戸程の小村であったため、宿割りには苦心したといわれています。
 御巡幸の一行は、岩倉具視右大臣以下文武高官370余名を含む、供奉員825名、ほかに番外として新聞記者6名、写真師2名、薬業4名、洗濯屋14名さらに県からは県令・係官数名、警部・巡査等がお供をし、そのほか人夫1,509名が泊まっています。これら膨大な員数を村内に受け入れなければならないので、格別の事情のある者のほかは村内全戸に宿を割り振りました。それでも村内におさまりきれず、岩室で泊まってもらう人も出ました。
 なお、使用した布団や借用物の返却などの雑務一切をとりしきったのが当時の割元庄屋 山崎村の高島良宣と弥彦戸長 国嶋兵次郎でした。

▼弥彦大火で行在所が焼失

 1912年(明治45年)3月11日夜の11時過ぎ、弥彦の町屋から出火した火は、折からの強風にあおられ、たちまち隣家の旅館に燃え移り、郵便局、駐在、民家などの32戸を焼いて弥彦神社拝観所に飛び火しました。懸命の消化活動も空しく、午前0時頃には御社殿に燃え移った後、境内16棟を焼き尽くし、午前4時30分頃鎮火しましたが、この火災で明治天皇行在所も焼失してしまいました。